xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

「アナーキー・国家・ユートピア」(ロバート・ノージック)を再読してみたよ ~「美しい国」・・・はぁ?そんなもんに国家の正当性なんてあると思ってんの!?~

 

アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界

 

 

えっとですねぇ~

 

この手の本って、例えばリバタリアンが自分の論拠とするために手にするとか、あるいは、ゴリゴリのナショナリストが反論の材料として敢えて手にするとか、そんな感じなんじゃないかしら。

もちろん、正義論や政治思想史関係の学生なら、さすがに読んでないのはマズいっしょ。

 

(* ´艸`)クスクス 

 

しかぁ~し!

アザゼルは自称アナーキー日和見的小市民系アナーキー)の立場からこの本を書棚から手に取ることにしたのでございます。

 

原書は1974年に発行。

もう半世紀近く昔の著作。

読んでみると、

「さすがに古くささは隠せないなぁ~」

というのが第一印象。

 

というか・・・

 

ノージックさん

その20年後に書いた「生のなかの螺旋」の中で、本書で提示したはずのリバタリアニズムを基本思想とする国家観をみごとに放棄しちゃったんですよね。、

真面目に勉強した学生諸君・・・残念っ!

 

もっとも。。。

 

この手の『思想的転向』は、過去から現在まで少なからずあったりするので、特に驚くには当たらないんですけれど。

 

ちなみに、ノージックさん、すでに鬼籍に入っておられます。

経歴を眺めてみるとハーバード大学哲学科の元教授。

コロンビア大学を経てプリンストン大学院へ。

世間的には典型的エリートっぽく見えるんですが、アメリカ社会党に入党したり転向したりと、その政治思想は、かなり紆余曲折しているのが興味深いところ。

 

さて。。。

 

本書が主張する社会モデル。

あきらかに(原理的)新古典派経済学を基礎にしています。

その出発点は、いうまもなくロックの唱えた自然状態。

あくまで道徳的規範が確立された無政府状態(注:国家なる組織など必要としない社会)であり、道徳の根幹は

「個人の権利は不可侵である」

というもの。

 

でもね。。。

 

自己と他人の権利が衝突するケースが無いだなんて・・・

社会通念上でもチット考えられませんよね。

 

むしろ。。。

 

社会がその規模を拡大する(例:村⇒市⇒都⇒国)につれ、個々の主張がぶつかり合う場面は日常的に発生しるであろうことは、統計データを上げるまでもなく、皮膚感覚レベルで理解できるはず。

相互の主張の衝突を放置する、あるいは、うまく対処できない・・・

そんなことになれば、社会不安を招くことは必定。

 

言い換えれば。。。

 

個人の権利は不可侵であったはずのものが、他人の存在(他人の権利)によって(主体的ではないにせよ)制約事項として社会の中で壁(障害)を作り出してしまうってこと。

他人との共生関係にある社会を生きていくためには、個人の権利の絶対性は、根拠なく他人の権利を侵害しない限りにおいて認められる、という理屈が導き出されてきます。

これは社会の本質をも意味しますよね。

 

例えば・・・

所有権絶対の原則を盾にして、自分の財産を一切の制約なしに使用・収益・処分することができるのかって問われたら?

実際、そんなことはできないですよね。

そんなことがまかり通れば、国は土地の収用だってできないはずですから。

(沖縄や千葉の人なら、闘争の記憶がおありかも)

で・・・

自分という存在の根源たる身体ですら、誰からも制約されずに自由気ままにふるまうことなんてできませんものね。

国の定める法律に違反すれば、自由刑である拘留・禁固・懲役に服すのはもとより、日本では生命刑である死刑まであるんですから。

 

それでもなお。。。

 

ノージックさん

諸権利は衝突しない方法があると主張するんです。

詳細は、この本を読んでいただきたいんだけど・・・

チット常識から乖離し過ぎている気が・・・

 

(;^_^A

 

この辺りで

「う~ん・・・

 よく分からんぞ」

となってしまった方は

ヴィレッジ [DVD]

をご覧になれば、自然状態に「ユートピア」を

見出す考え方が分かるかも・・・です。

 

チット話題を変えちゃうんですが。。。

 

最近、貧富の格差問題(貧困問題)って問われていますよね。

自然状態においては、財産は自己の労働によって獲得するのが基本であり、それ以外は他人との合意に基づく移転を通じてのみ獲得できるってことになるんだとか。

 

ところが。。。

 

財産の獲得を「是」とした途端、自然な社会は歪な形へと自ずと変容しちゃう。

いくら道徳的制約を課したところで・・・

社会を構成する各人が自己の利益を最大化を目的として行動すれば・・・

どうなるでしょう?

 

仮に、社会の構成員が合理的経済人であるとしても(実際はそんなことはあり得ませんが)、利害の衝突の解決、公正な交換の場の提供と規制・・・

ほらほら、強制力をもった「国家」が登場せざるを得なくなるでしょ。

社会の基盤たる道徳的規範を実現させるために、いわば自発的に国家という強制力をもった組織体の必要性が発生するってわけ。

かつてアダム・スミスが唱えた

「神の見えざる手」

は、価格発見機能そのものよりも、さらに大きなものを生み出すエンジンとなったことに注目して欲しいんです。

 

チット論理が飛躍しちゃうけど・・・

市場の発生と発展。

これが国家を生み出す原動力となるとしても、やがて市場と国家はその利害を相反させる可能性が非常に高い。

国境(領土主権主義)を簡単に超える資金移動を可能にしたグローバル化された金融市場(対象がコモディティであっても同じ)は、一国家の権力では、とても制御できるレベルを超えていますよね。

 

 この点については、さすがに半世紀近くも昔に発刊された本書では完全に欠落している視点であるので、サラッと述べておきたいと思います。

社会主義陣営(特に東欧)の崩壊、中国の赤い仮面をつけた市場経済化、アジアの発展途上国の台頭・・・そんなことが現実に起こるなんて、発刊当時に予想した者がどれほどいたことか)

 

国家は、その成立過程からも分かるように、本質的に管理強化へと動く、あるいは、動く傾向が非常に強い。

その極北が戦前の日本のような独裁体制。

戦前の日本の社会に憧憬を抱く方もいらっしゃるんでしょうが、実際は、例え夫婦間ですら本音を語ることが憚れるほどの密告(市民による相互監視)社会。

そんな時代に帰りたいのは政治的権力者か、頭の痛いヒトぐらいのものでしょう。

日本会議の資料も読んでみたけど・・・酷いもんです)

 

最近はかなり怪しいけれど、世界の警察官を自任する米国であっても、市場への規制や介入は常時実施されています。

最近でも「後出しジャンケン」で某金融機関に巨額の賠償金を課したり(ゲホゲホ)

また、フランスなどでみられたように重要産業の国有化なんて、形は違えど、市場経済に対する介入(まぁ労働問題とか・・・いろいろあったんだけれど)の典型例。

 

余談ながら、国家にとって最も重要なことは、国民を守ることではありません。

国家自身を、省を、軍を維持することが至上命題。

必然的にその運営は非効率さを増大し続けることになります。

でも、国家の屋台骨を揺るがす(維持できない)に至り、英国で吹き荒れたサッチャリズムの嵐のように、世界的な「民営化」の波が押し寄せてくることとなったわけ。

やむなく、政府は「ガバメント」から「ガバナンス」にその軸足を移さざるを得なくなったんです。

 

例えば、南米にみられるように、左派政権や独裁政権が台頭すれば、政府は肥大化し、市場へのあからさまな介入・規制が行われ、民間経済の活力は著しく低下。

国民を困窮と治安悪化の果てへと追いやっていることをみれば、統制経済の限界ってもんが分かるはず。

 

国家は、市場をその手で完全にコントロールすることなど不可能であるし、実際、そのようなことは(少なくとも金融当局は)考えていません。

某宰相が唱えたような「美しい国」など、その著書の発刊当時から実態が無いと非難されていましたが (* ´艸`)クスクス

『国民を(自発的にせよ、強制的にせよ)同じ目標に向かわせるような大きな物語

など世界中を探しても、もはや何処にもありはしないことに気付くべきでしょう。

ネット時代を生きる国民は、そこまで愚かではない・・・と信じます。

(日本の「宗主国」(;^_^A たる米国が、日本が戦前の独裁国家へと回帰(戦後レジームがどうたらこうたら)することなど認めるはずもないのですが・・・)

 

政府の介入・規制それ自体を否定するものではありません。

っていうか、必要不可欠です。

でも、それが行き過ぎれば、経済の悪化と不公平(不公正)が大手を振ってまかり通る極めて不健全な社会へと堕落しちゃうことが問題。

 

グローバル化した市場経済は、金融危機という名の「地雷」を特定の地域に止めることができません。

ほぼ確実に世界規模の危機へと連鎖させるおそれを内包しちゃっている。

 

閑話休題

 

会社であろうと国家であろうと、市場という「自発的交換」の場が生み出したものとして説明することができます。

(国家の発生を市場に求めることが必ずしも当たらないケースがあることも付言しておきます。)

ここで、自由主義経済と社会主義経済では決定的な差異をみせることになります。

「自発的交換」の域を超えた強制的再分配を国家が行うことは果たして(道徳的に)容認されるのでしょうか?

これは政治思想の中でも、道徳、もっといえば正義の問題。

ジョン・ロールズさんのラディカルな「正義論」の出版は1971年のことですから、ノージックさんは当然読んでいたはずですから、その影響を強く受けたのは、ある意味で当然でしょうね。

 

社会における正義とは何か?

 

あっ!?

ソフトバンクの孫正義CEOじゃないですよぉ~

・・・申し訳ございませぬぅ。

 

 (m´・ω・`)m ゴメン…

 

ノージックさん、道徳的規範を維持するために必要な裁定と執行という「サービス」の提供だけを国家に求めたんです。

いわゆる「最小国家」への志向。

彼は、福祉国家、そして社会主義国家を強く強く批判します。

彼には、そんな国家は正義だとは考えられなかったから。

 

もっとも。。。

 

最小国家」では貧困の問題などについて、何らの解決策も持ち合わせてはいないことに留意すべきですよね。

いや、そんなんじゃダメダメじゃん!という主張には同意するけれど、これは政治思想の問題であることを踏まえて議論しないと・・・

それに、ノージックさんは、その点を考慮しなかったわけじゃないんです。

(アソシエーションという考えを開陳していらっしゃいますが、ここでは割愛)

それでもなお、ノージックさんにとって「自由こそが正義」だったんです。

 

そして。。。

 

自由は国家から与えられる恩恵などではなく、当然に個人が手にしている権利であると信じて疑わなかった。

だからこそ、ノージックさん、他国から自由を守るための軍が必要だという結論を導く出すんです。

でもね・・・

ノージックさんは、その点においても制約を設けようとするわけ。

自国民が生命の危機に晒されているとき、それを排除することは国家の義務である。

ただし、自国民の安全のためであろうとも、他国に如何なる攻撃を加えても良いわけではない、と。

ここで

「オイオイ

 原爆を落としといて、どの口が・・・」

なんて思わないように。

ノージックさんが落としたわけじゃないんだから。

まぁ・・・

専守防衛」を旨とする日本には、意外とスンナリ受け入れやすい考え方じゃないかって思うんですけど。

 

さてさて。。。

 

私たち日本人は、国家、社会、そして正義について、どれだけ真剣に考えてきたのでしょう?

国民と国家の関係、そして、これからの国家の体系、社会のあり方というグランド・デザインについて。

 

例えば、高福祉国家を求めるのであれば、市民生活への一層の国家介入も覚悟すべきかもしれませんね。

少なくとも・・・

「国家=国民」みたいな政府にとって都合が良いだけの思考に堕するような真似はしたくないなぁ~って考えています。