xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

「悲劇の誕生」(ニーチェ)を読む  ~彼の生涯のテーマ「生きることに意味はあるのか」を考えてみるの巻~

フォイエルバッハの「キリスト教の本質」を読んで

ニーチェの著作を読み直してみようと決めたんです。

 

  

フォイエルバッハの呼び方は

 フォイエルバハの方が近いのですが

 一般的な呼び方に従います。

 

 

「神は死んだ」

というフレーズは有名だけど

『神』なるモノに引導を渡したのは、フォイエルバッハ

 

 

当時は「神は死んだ」とか「神は人間の被造物である」とか

そんなことを論文として発表したり、書籍として販売したり

それはもう社会的に抹殺(大学から放逐)されかねない

非常に危険な自殺行為だったことに思いを馳せる必要がありますよね。

 

 

神聖同盟の時代であったことをお忘れなく。

 すなわち、宗教批判は、即、政治批判になる時代だったんです。

 「神聖同盟・・・知らん!」

 という方は気になさらないでください。

 

 

 

てさて。。。

 

 

 

生きるとに意味はあるのか』

  

ニーチェの生涯を通じ

一貫して主命題となっていたもの。

 

 

普遍性を持った、この問い。

普段は、そんなこと意識することもないのですが

非常に厳しい苦境に至ったとき

ヒトは途端にこの問いを想起しちゃうみたい。

 

 

言い換えれば、「リア充」と称されるような人々は

生活が充実し、愉快に暮らしているのだから意識されない。

また、平穏無事な生活を送っている人々にとっても同じこと。

 

 

 この問い

生きていく過程で

己に問うことなく生きていけるのなら

その方がよほど幸せですし

安穏と暮らせるでしょうね。

 

 

ところが、生きているコトが息苦しい、否、ツラい・・・

そんな状況、あるいは、死への衝動が胸を締め付けるようなとき

生きる意味を己に問い始める・・・ 

 

 

この問いの落とし穴は

「ただ生きているだけでは、意味はない」

という結論に至り易いということ。

 

 

これを避けるためには

「生きる」

ことに有意義な「意味」を持たせなくてはなりません。

 

 

例えば

「空しい」

その想いは

例えリア充であろうとも

不意に襲われることだってあり得ます。

 

 

なぜなら

ヒトたるモノである以上

「生きることの意味」

を潜在意識のレベルで問うている可能性は否定できないから。

 

 

その例として

成功者(特に絶頂期)でありながら

「空しい」

という想いが顔を覗かせるのは

ある意味で当然なのかもしれません。

 

 

「充実しているんだ」

 あるいは

「愉快だなぁ~」

そんな思いが心理的な壁を構築する。

ところが・・・

その壁が崩壊したり

あるいは

鉄壁だったはずの壁をすり抜けて

「生きることの意味」

を問いはじめる・・・

 

 

ニーチェ

「生きることに意味はあるのか」

を生涯をかけて問い続けた。

そして

発狂して・・・

死んだ。

 

 

ニーチェの功績は

「生きることに意味はあるのか」

という問いを立てるにあたり

上で書いたような

人生の好不調による違いを捨象し

純粋な命題として組み上げた点にあるんだろう

そう理解しています。

 

 

 

・・・すいません

ここからが本編なのですが・・・ 

 

長大になりそうなので <(_ _)>

 

 

この続きは

書くかもしれませんし

書かないかもしれません。

 

 

それでは!