xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

A word or sound repeated to aid concentration in meditation.

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このマントラは、死を克服したとされるシヴァ派のもの。

朝夕、1日に2度唱えることが求められています。

 

 

映像に出てくる「リンガ」

女性器に挿入した男性器の象徴とも言われております。

 

 

挿入、射精、懐妊、出産という生命の輪廻(あるいは因果)によって

「私」という存在の消滅(死)を我が因子を残すことができる。

 

 

「私」という存在を、個人の「死」によって絶対的な意味での

消滅とはさせない。

そんな執念というか、土着の世界観すらも感じさせてくれます。

(「100年の孤独」の読みすぎ・・・かしら m(_ _)m )

 

 

 

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仏教徒となったティナ・ターナーさんのマントラ

アザゼルのようなスピチュアル系の人間にとって)

とても有名。

 

 

 

ここで思い出したのが、歎異抄

 

 

物事について

「善」であるか

「悪」であるか

そんなことは問わない。

 

 

念仏を唱えること

これに勝る「善」たる行いは存在しないのだから。

 


念仏を唱えることで

極楽浄土に迎えられるのか

無間地獄に落とされるのか

そんなことも問うてはならない。

 

 

もし「地獄に落ちたくない」と考えるのなら

自力による救いを求めてはならない。

あくまで他力にすがらねばらないのだ。

このことを忘れてはならない。

 

 

念仏とは与えられるたもの。

ひたすらに救いを求め続けるのだ。

 

 

救われるはずのない「悪人」すらも

むしろ救われるということ。

それこそが仏価といえよう。

煩悩(もしくは業(ごう))にとらわれている者ほど

往生できるというを決して忘れてはならない。

 

 

経典などを学ばなくとも

解釈を学ばずとも

そこに書いている意味を全く理解しておらずとも

ただひたすらに念仏を唱える。

それこそが、容易ではあるが、最も重要なことなのだ。

 

 

また、念仏を日に何度唱えば良いのか?

そんなことは、些末なこと。

 


この世界には、一切の煩悩や悪障を断ち切ることで

大悟に至るなど、実際にはあり得ない。

煩悩に苛まれた状態のまま往生することを理解すべきである。

「悪」を避け、懺悔の日々を暮すなど、妄想に過ぎない。

 

 

形式に囚われわれた先にあるものは、むしろ「地獄」である。

寄進や施しによって往生できるか否かが変わるなどということは有り得ない。

大衆の欲望を煽って道を迷わせるなど、まさに言語道断。

ローマ教皇レオ10世時代の贖宥状などは言語道断の振る舞いってことね。)