xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

非二元(ノンデュアリティ) : 思考する私は実在するのか? ~実在性を超越したところにこそ、「本当の私」がいるのかもしれませんの巻~

スターピープル ― 覚醒の時代を生きる Vol.66(StarPeople 2018 Spring)

 

 

『我思う

 故に我あり』

(コギト・エルゴ・スム)

 

 

デカルトが「方法序説」に記した、この命題。

実は多くの方が、特に疑問を抱くことなく「真である」と解釈しているのではないかしら?

 

「そんなもん、フッサールもガッツリ批判してんじゃん!」

と脳裏に秒速で浮かんだ方・・・

そんな博覧強記を誇るような人は、この記事、読む必要なんかございませんぞ(笑)

 

 

例えば、自分が今、存在している(=思考している)世界が、実はヴァーチャルなものでしかない(仮想宇宙論)と仮定したとします。

つまり、一種の思考実験です。

 

 

この世界は、仮想空間に(神ごときモノによって)構築された、物理的実体を有しない『作りモノ』ではないのかと考えた(=疑った)としましょう。

そのような思考(=意識)を働かせたことについて疑う余地が無いとするのならば、斯様な意識作用を有する自己(我)は実在していると考える他はない、というものです。

 

 

さらに言い換えれば・・・

「私という存在は物理的実体を有しない。

 何らかのプログラムにより仮想空間上に展開されたプログラムによって構築されたモノに過ぎない(=物理的実体を有しない=実際には存在しない)のではないか。」

と疑ってみたとします。

すると、「疑っている私」という存在(=物理的実体を有する)は否定できないというものです。

 

 

これは一種のトートロジーともいうべき(仮説ではあるものの)問いと思考実験の結果が循環することになります。

乱暴にまとめれば

「考える、それ自体が私という実体の存在証明」

というのが、この命題のイイタイコト。

 

 

これが、いわゆる「コギト命題」の本質。

意識(※「意識」とか何か、という点については明確な定義はなされていない。)の内部構造(のホンの一部)の発見ともいわれています。

 

 

なるほど「意識」について『内部』と『外部』を問うたという意味では、中世の伝統的な思考方法とは、明らかに一線を画すもの。

その後に与えた影響力の大きさは計り知れません。

 

 

内部的観念と外部的実在が相互に補完し合う(=一致する)のか?

という点について、デカルトが示した(※証明したのではない)ことは、このような思考方法の妥当性に疑義を唱えたわけです。

 

 

観念するとは表層的なるもの。

表象と実在は一致するのではない。

 

 

表象的側面から「私」ひいては「世界」が実体を有する在在することについて、真偽判定はできない。

では確実に「真である」と判断できるものとは、「考える私」というもの。

 

 

これを強引に敷衍し、

「全知全能たる神は、そもそも思考する必要があるのか?」

と考えてみましょう。

旧約聖書に出てくる神(自ら「嫉妬の神である」とまで述べている)、すなわち人格を有する神は、圧倒的な力を有しながらも、所詮は神ごときモノに過ぎず、全知全能の神ではあり得ない、という結論に帰結するという『神殺し』の思考方法でもあったことに注目すべきでしょう。

 

 

中世の世界をいろいろな意味牛耳っていたキリスト教会の支配からの脱却を、図らずも準備するためのカタパルトの役割を果たした、ともいえます。

もっとも、すでにお気付きのとおり、思考するモノは例外なく存在するという理解は正しいとは思えませんよね。

 

 

何故ならば、この命題も、あくまで論理空間上の直感に依拠するものだから。

直感は、重要ではあるけれども。所詮は実証されたものではありません。

 

 

デカルト自身が、この点について、具体的にどのようにして「真」であると導いたのか、アザゼルには分かりません。

おそらく・・・デカルト自身が証明を行ってはいないのでしょう。

 

 

てさて。。。

 

 

非二元(ノンデュアリティ)の話なのに、「思考する私(我)」についてデカルトの唱えた考え方を持ち出したのは、より深く非二元について理解する必要があると考えため。

 

 

ついでに理解しておくべくモノ。

それが「実体二元論」

 

 

現在、学会はいうに及ばず、実体二元論を支持する専門家はほとんどいない、と言われています。

その理由が、

『世界には物理的存在と思考による論理的存在という独立した別個の実体がある』

とする考え方が原因。

 

 

この考え方が支持されないのは、例えば「大脳」の一部を切除するロボトミー手術を施された罪人にも心はあると考えるから。

もっといえば、「脳」すべてを切除した人間ですら、感情や善悪の判断が付く・・・

そんなわけがありませんものね。

 

 

 

だし。。。

 

 

 

この世界には、物理的実体(例:私という肉体)とは別に、魂のような論理的(心的)実体がある。

この論理的な機能の一部(例:思考)は物理的実体とは全く別の論理的実体が担っているという考え方には留意すべき価値が未だにあるものと、アザゼルは考えます。

 

伝統的にはデカルトの二元論を指すものです。

この点でも、デカルトが唱えた思考には留意すべきだと思われます。

 

 

 

。。。

 

 

 

本題の「非二元」について考えてみましょう。

上記のような考え方を踏まえた場合、果たして思考は「本当の私」なのでしょうか?

 

 

いきなり本質的な「問い」をブッ込んでみました。

  

  (* ´艸`)クスクス

 


思考する私は、実体としての「私」とは無関係である。

というスッゴイ結論が導き出されるとしたら・・・

 

 

自分を卑下したり、嫌悪したり、反省する自分も

「本当の私」

じゃない。

 

 

他人を誹謗中傷したり、いじめたりする自分も

「本当の私」

じゃない。

 

 

いろいろなことで不安になったり、心配したりする自分も

「本当の私」

じゃない。

 

 

であるとするならば・・・・

「思考する私」は「本当の私」の間には

一致どころか相関関係すら導き出せない

ことになります。

 


 

 

過去に書いたように、この考え方の基礎となる土台部分は14世紀という中世の時代に異端審問を受けることとなったマイスター・エックハルトにより説かれたもの。

 

 

一時の感情で爆発してしまった自分だって

「本当の私」

などではない。

 

 

さらにさらに敷衍すれば

自分で判断したはずの行為ですら

「本当の私」

なんかじゃない。

 


自分の中で構築された価値観や常識など

「本当の私」

とは何らの関係性も持ち合わせていない。

 


鏡に映っている自分の顔や体だって

「本当の私」

なんかじゃない。

 

 

 

いいですかっ!

 

(また使ちゃった・・・このセリフ (* ´艸`)クスクス)

 

 

非二元(ノンデュアリティ)の考え方の素晴らしいところは、

(1)過去の自分からの決別

(2)未来に向かって自分を変えることが可能

(3)思考する対象が自己の内部から外部にある(はずの)根源へと回帰

(4)「私」という存在への拘りをできる限り少なくすることで不安を払拭

 

 

さぁ・・・

非二元の最終目標である「宇宙意識」との合一(私という存在の消滅)という一種の「悟り」への境地に向かって少しづつ足を進めるようにいたしましょう。