xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

資本主義に関する雑感 

資本主義は、商業が発達しているから成立するものではありません。

・封建的共同体が解体されること

市民社会が形成されること

このような歴史的切断が行われるから、資本主義は成立するんです。

一方、資本主義社会を構成するものは、資本主義的性格を有する政治と文化、すなわち、イデオロギーを例外なく形成します。

 

言い換えれば、経済的側面だけでは資本主義を語ることは不可能であるということを意味します。

共産主義あるいは社会主義では、経済=政治という等式が必ず成立しますが、資本主義(体制)においても、この等式が成立することに留意すべきでしょうね。

 

 

もっとも、文化とは何か、という問いに答えることは決して容易ではございません。

ここでは乱暴ではございますが、敢えてイデオロギーと同義として取り扱います。

 

 

ニーチェやドフトエフスキーらの作品は、その多くが資本主義との格闘であったと考えても過言ではございますまい。

アザゼルの問題意識は、「美的なるもの」の領域には、資本主義的文化を担う産業の力に抗し得る力を、今でも有しているのか? という点なんです。

 

 

仮に『資本主義がすべてである』であれば、私たちは、そのような社会の内部に閉じ込められ、世界は「外部」を持たないというコトになってしまいます。

資本主義においては、日常的な物資を巡る欲望と、我々自身が存在形式を確認する、そんな根源的な欲望の場所が隣接している、あるいは重なり合うことで、自身の存在意義(あるいは場所)を確認し、その形式を再生産する社会的行為が見えにくくする社会であることを意味するといえましょう。

 

※「場所」論については、これを論じ始めると

 収拾がつかないので割愛します。

 


 

先日書いたように、私たちは科学の力によって、全知全能の神の非存在を証明しました。

「神殺しの時代」においては、眼前の経済的行為が「すべて」のものの意味となるわけですから、その行為自体が他の場所において自らの意味を有しないこととなり、自己目的化せざるを得ないこととなってしまいます。

 

では、資本主義は社会主義にとって代わられるのでしょうか?

おそらく・・・それはあり得ないでしょう。

 

 

「革命」の機運など、この日本ではもはや幻想の域を超えるものではありません。

本来は「革命」の戦力となるべき若年層で、特に自由民主党の指示率が高いことは、決して理由の無いことではありませんもの。