xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

映画「ストレンジャー・ザン・パラダイス」を観る ~人生は不可解なものであり、喜劇でもあるの巻~

 

 

30年以上も昔の映画。

アザゼルが生まれるズッと昔の映画。

 

 

DVDで観た理由は2つ。

古書店で信じられないぐらい安い値段で売られていたこと。

そして、如何にもアウトサイダーっぽい男女が登場人物だったこと。

 

 

あらすじは・・・

こんな感じ。


 

 

ジャームッシュ監督のシャシンって、グダグダ説明などしない。

映画の中で、観客の理解を助ける(=この映画の世界感を分からせる)ため

「コレはソウで、ソレはアレで・・・」

みたいな観客向けの説明は一切しないんです。

 

  

一度観たぐらいでは理解できないからこそ、観客は不思議な感覚を覚える。

そして余韻(=この映画について考えること)に浸ることができるんですよねぇ~

 

 

自主製作映画という、必ずしも商業的成功を主眼に置いているわけではない映画だからこそできる「実験」

でも、わずかでも「実験」的要素の無い映画って、それが例え商業映画であったとしても、アザゼルには、どうしても幼稚に思えてしまうんです。

 

 

 

ころで。。。

 

 

 

「宗教とアウトサイダー

 

という作品があります。

すでに邦訳版は絶版。

古書店でないと手に入りません。

 

宗教とアウトサイダー〈下〉 (河出文庫)

 

著者のコリン・ウィルソンさんの正規学歴は、高卒。

大学には進学すらしていません。

 

 

日本など比較にならないほど厳しい学歴社会の英国。

その中にあって、コリン・ウィルソンさんは働きながら、独学で社会学倫理学・哲学・宗教学などを習得し、作品を発表。

処女作「アウトサイダー」(※今回取り上げた作品は、この『アウトサイダー』の事実上の続編に該当します。)を世に送り出したとき、彼は25歳。

 

 

もし大学院に進学しているのなら・・・

やっとマスター・コースを終えたか、ドクター・コースの1年。

処女作を世に問うなんてことも無かったでしょう。

 

 

そして・・・

彼が大英図書館で学んだという知識を基に、彼独自の世界を構築し、世に問うた「アウトサイダー」は幸いにしてベストセラ―に。

コリン・ウィルソンさんは一躍、この手の世界では有名人に。

 

 

彼の作品については、

基本的な事実誤認が容認できないほどにある

不確定なことについて断定的に表現するなど、読者を誤った方向に誘導している

などなどの評価があります。

その一方で、ベストセラーを出せる、つまり、読者を魅了するだけのモノがあるのも事実。

 

 

 

。。。

 

 

 

アウトサイダー」は、いうまでもなく、インサイダーの反対概念。

ここでいう「インサイダー」は、乱暴に申し上げれば、真っ当な社会人のことだと思えば分かりやすいのでは?

 

 

アウトサイダーは、到底、真っ当な社会人とは呼べない人種。

社会に順応しない

 それどころか

社会の秩序であるとか道徳といったものを拒絶する

それを無邪気に(=陽気)に行う。

 

 

言い換えれば・・・

「社会という得体の知れないもの」

の内部に留まることができない者たちのこと。

 

 

社会的成功に興味を示さず

自己を規定されることを嫌う。

・・・何とも御しにくい者たちでござるね。

 

 

 

も。。。

 

 

 

真っ当な社会人として生きるコトって、実は間違っているのかもしれません。

あっ!?

・・・間違わないでくださいね。

ココで申し上げているのは、所属する社会の規範に反するコトだと指摘しているわけではないんです。

 

 

むしろ・・・

正しいと思い込んでいた社会なるもの、それ自体が間違っているかもしれない。

それどころか、現実の社会は『狂っている』のかもしれない。

と申し上げているだけなんです。

 

  

かつては・・・

世俗政権と強く結びついた「宗教」が庶民の「生活様式」を規定していました。

世俗政権と結びついた「宗教」は、すべからく腐敗し、本来の教義から乖離する運命にあるにもかかわらず。

 

 

それでも「宗教」は、『狂っている』かどうかを判断するための指標足り得た・・・

狂気的な「魔女裁判」、カタリ派のような「異端者」たちへの軍事的制裁(=虐殺)の際にも・・・

 

 

民衆が愚かだった(=学校教育制度が整っておらず、権力者サイドの思惑により、一般民衆には都合の悪い情報が遮断された)時代はそれでも良かったのでしょう。

現代のように科学主義が主流となり、ネットから溢れんばかりに『垂れ流される情報』(大半はゴミみたいな情報)が得られる時代では、民衆を権力者の思惑通りには踊らせるのは益々難しくなっているのかもしれません。(いや、その逆か!?)

 

 

 

ぁ。。。

 

 

 

人間、幼少からに身についた(というより浸み込んだ)習慣を払しょくするのは容易なことではございませんよね。

それは「神」を信じるか否か、という信仰にかかわる最重要問題からも切り離された、「生活」の形式を規定するもの。

 

 

宗教というバックボーンから生み出された規範という名の不自由を甘受する。

そのかわり、日々の生活は安定し、当人は(少なくとも)「安心」する・・・

という構図。

 

 

何かを喪失する

あるいは

何かを拘束される

という「不自由」を甘受さえすれば

精神的な「安心」を得られる。

 

 

インサイダーなら、真っ当な社会人なら、そうでしょうね。

でもアウトサイダーは、違います。

 

 

著者のコリン・ウィルソンさんは言います。
アウトサイダーの救いは、極端の中にある』

 

 

「救い」といえば、「救い」なのでしょう・・・

でも、インサイダーからみれば、恐怖以外のナニモノでもありません。

 

 

でも「恐怖」は、一種の憧れへと容易に転化しちゃいます。

北野武監督の「アウトレイジ」シリーズみたいなヤクザ映画がヒットする要因の一つに、そんな感情の影響があるように思いますぞ。

 

 

これらの点を踏まえた上で、この作品を眺めてみると・・・

意外に面白く鑑賞できるんじゃんないかしら。

 

 

 

てさて。。。

 

 

 

超低予算の自主製作映画だけに、主要な3人以外、ほぼ脇役・端役すらほとんど出てきません。

その3人も役者が本業ではありません。

楽家(ジャズなど)の友人をジャームッシュ監督がアサインしたのでしょう。

 

 

敢えてモノクロにして、映像も全部が全部「引き」だけ。

全カットともカメラは固定して撮影。(おそらく1台しかなかったのでしょう)

 

 

感性(政治思想を含む)とアイデア、それと役者の魅力でしか勝負できないからこそ、「足し算」を放棄し、徹底的に「引き算」することに賭けた監督の覚悟。

もうね・・・

『観るシャシンは、監督で選べ』

の言葉のとおりでございました。

 

 

最近の日本映画(アニメを除く)のように、演技もまともに出来ない役者を臆面もなくアサインして、クソみたいな作品をダラダラと垂れ流すのって・・・

監督がバカなのか、脚本家がアホなのか、制作サイドがクズなのか、あるいは全部ダメなのか・・・

 

 

あと・・・

「美しい対象を探すことを止めよ。

 目の前にある対象の中にある美を探せ。」

という言葉をチット念頭に置いておくと、この映画、かなり興味深い発見があるように思うのでござる。

 

 

登場人物、各人ともファッション・センスが高く、既成のアウトサイダーっぽくありません。

個人的には、既成概念など軽く無視する姿勢には敬服いたしました。

 

 

 

後に。。。

 

 

 

「帽子」が、この映画のキーワードであることは気付きました(※結果的に三人ともかぶっています。)が、その意味するところが分かりません・・・

 

 (´・ω・`)ショボーン

 

何の寓意が含まれているのでしょうか・・・