xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

映画「メッセージ」を今いちど観て分かったこと ~幸せになるための道を探す・・・そんな打算に満ちたモノに心の救済は訪れない~

 

 

 

『これからどうなるのかを知った

 それが何をもたらすのかも

  だけど、それを受け入れる

 その全てを喜んで迎い入れる』

 

 

 

もう過去の映画です。

ただ、私には忘れ得ぬ映画でもあります。

 

 

 

むしろ

「この映画、何が言いたいのか、よく分からんぞ・・・」

という向きもあるようですが

これほど主張が鮮明に出ている映画も珍しい。

 

 

 

文芸作品であろうと、映像作品であろうと、音楽作品であろうと

テーマ(主張=イイタイコト)が露骨に表に出てくる作品は

一般に品位が低いと解釈されがちです。

 

 

 

しかし、この映画の場合

宇宙人の登場という典型的なSFの題材を扱いながら

イイタイコトは非常にオーソドックス。

 

 

 

映画とは離れてしまいますが

新約聖書に描かれたような

ジーザス・クライストが本当に実在したと仮定したのなら

何故をもって「偉大なる方」であるといえるのでしょう。

 

 

 

私は、このように考えています。

 

危険思想の持主(昭和の時代なら日本赤軍クラス)であるとして

祭司長の手の者に捕らえられ、ついには磔刑に処せられるという己の未来を

ゲッセマネの森において、明確なビジョンとして知ってしまったジーザスが

 

幸福な未来など訪れることはない

 

 それどころか

 

人間としての尊厳を奪われ

肉体を容赦ないまでに破壊され

凶悪な政治犯として獄門死させられる

まさに「絶望」という言葉しか浮かんでこない

 

そんな未来が待ち構えていることが分かっていても

 

 彼は逃げなかった。

 

 

彼は非常に怯えているのです、聖書の中でも。

でも・・・

逃げ出そうとすれば出来たはずなのに

彼は「逃げる」という選択をしなかった。

 

 

 

私は、ここに「愛」の本質を見出すのです。

 

打算ではない

未来を信じる

もう一つの表現

 

それこそが「愛」だと信じています。

 

 

 

さて。。。

 

 

 

最愛の娘を癌で失ってしまう・・・

しかも、それがトリガーとなって

自分の最大の理解者であり

戦友ともいうべき存在だった

優しい夫とも別れることとなる・・・

 

 

そんな耐え難い「喪失」が訪れる

幸福とは決して呼べない

むしろ絶望という名の未来が訪れることが分かっていても

 

 彼女は逃げない。

 

 

この映画はSFという舞台設定を使うことで

言語相対性理論の考え方に基づき主人公が

未来を知ることができるという前提を置く。

 

 

そのイイタイコトは「愛」

 

 

 

 

ただし。。。

 

 

 

聖書とは決定的な差があります。

その「預言者」としての能力は

特定の誰かが独占することはありません。

 

 

 

全人類への贈り物(最強の武器)として

宇宙人がもたらした未来への懸け橋として

世界の人々に共有される。

 

 

 

ある意味、「民主化」なのでしょう。

物語の中ですら、現代劇では特定の誰かが

「預言者」という地位を占めることはないのですから。

そう。

未来は、皆で分かち合うものだという

 

 「メッセージ」

 

 

 

最後に。。。

 

 

 

物語の基盤を成す「言語相対性理論」あるいは「サピア=ウォーフ仮説」については、個人的には懐疑的な立場をとります。

あくまでも映画の中のおとぎ話程度にお考えになる方がよろしいのでないかしら。

 

 

 

たしかに「考える」とき

無意識下にあっても、私たちは何がしかの言語により解釈しようとします。

イメージのレベルであろうとも、言語という枠を超えることは難しいのは事実でしょう。

でも、非言語的思考が不可能ではないとも考えます。

(言語中枢機能の発達によって、徐々に困難になってきますが・・・)

 

 

 

特に複雑な事柄を言語を使用せずに考えるコトなどあり得ません。

では・・・使用する言語によって「考える」こと自体が異なるのでないか?

そう考えるのは、そう不思議なことでもないでしょう。

 

 

 

「色や味や音を表現するとき

 使用する言語によって明確な差異がある」

 

といわれるのも尤もらしく聞こえますよね。

でも、これは俗説でしかありません。

実証研究の結果、この考え方はほぼ否定されています。

(ただし「再認識」に関する実験においては、

 言語による差異がみられたことも付記しておきます。)

 

 

 

本当の日本料理の味は、日本人の料理人にしか出せない。

そんなもの、唯の思い込み、あるいは日本人の願望でしかありません。

逆にフランス料理の場合を考えれば、子供にだって分かろうというモノ。

 

 

 

「言語とは、すなわち思考である」

(いわゆる強い仮説)

と捉えることが妥当だとは思いません。

 

 

 

「考える」

 それは

ある特定の言語によって行わる

 だとしたら

使用する言語によって

考えること自体が非常に大きな影響を受けるのではないか。

 

 

 

英語と日本語の差異云々を持ち出すまでもなく

コンピュータ言語を考えれば、その考え方自体が間違っているわけではない

のは自明でしょう。

 

 

 

しかし、異なる言語を用いることにより

時間の概念から世界観まで変わる・・・

議論が飛躍しすぎであると思えてなりません。

 

 

 

そもそも、サピアやウォーフの主張は、全人類を一つにするためには、世界観の一致が不可欠であり、言語の統一が欠かせないというものが含まれていたことは忘れてはならないようにも思います。

 

だからこそ

 

映画「メッセージ」でも

その基本理念がSFの舞台装置に組み込まれているのですから。