xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

映画「上意討ち 拝領妻始末」を観る ~キネマ旬報 昭和42年度第1位。藩主からの拝領妻が実話であることを知れば、この映画を深く味わうことができるはず~

上意討ち 拝領妻始末

 

アザゼルは、日本の時代劇が大好き。

今回の映画は、滝口康彦さんの「拝領妻始末」という小説の映画化。

 

 

制作は三船プロダクション

配給は東宝

 

 

テーマは、封建制の残酷的な本質と矛盾を抉り出すこと。

主命(藩命)の名の下で起きた、会津松平家24万石での騒動を描いた作品。

 

 

時は享保10年。

場所は会津若松

 

 

ちなみに・・・

この時期の日本は、将軍 徳川吉宗の「享保の改革」により、常軌を逸した緊縮財政が強制され、その影響から全国的に景気は大きく停滞。

会津松平家も例外ではなく、侍の暮らしは厳しさを増す一方であったことは、映画や小説で説明は無くとも、時代背景を押さえておいて方が面白いかもしれません。

 

 

で・・・

「拝領妻」(はいりょうつま)とは、藩主あるいは上役の側室を

「このオンナ飽きたから、お前にやる。

 妻として娶れ。」

として、下げ渡された女性を妻に迎えるというもの。

江戸時代以前には、主君から家臣への大いなる信頼の証として行われた例(代表例は柳沢吉保)もあり、名誉であるとされる一方、要するに「中古品」を下げ渡されるわけなので、家中からのやっかみや誹謗中傷も酷かったとも・・・

 

 

もとより、主命である以上

「お断りします!」

なんてことは口が裂けても言えませんし、万が一、許嫁なんかがいると最悪の事態(当然、強制的に破談)に。

 

「でも、小説なんだから、創作じゃんっ!!」

 

そう思った貴方、早計に過ぎますぞ。

 

実話がベースにあるんです。

 

 

本妙院 (松平正容側室) - Wikipedia

 

本妙院(ほんみょういん、宝永7年(1710年) - 享保17年7月13日(1732年9月1日))は、陸奥会津藩3代藩主・松平正容の側室。

4代藩主・松平容貞の生母。

父は塩見平右衛門行重。

名は伊知、市、のちに美崎。

家臣に妻として下げ渡された後、城に戻された拝領妻として知られる。

宝永7年(1710年)、江戸に生まれる。

享保8年(1723年)、14歳のとき、会津藩の江戸藩邸にて藩主正容の継室・お祐の方の女中となった。

容姿端麗の上、小唄三味線と得意とした。

会津在国中の側室に選ばれて会津に下り、正容の側室となった。

享保9年(1724年)8月、正容の八男・容貞を産む。

 

しかし、約1年半後の享保10年(1725年)10月には、容貞から引き離され、物頭・笹原伊三郎忠義の嫡子、与五右衛門忠一に嫁がされた。

笹原家では一度は深く辞退したが、藩主の御内意であると強く申し伝えられ、都合が悪ければ離縁して実家の塩原家に返してもいい、同輩の中から娶ったものと同じく心得て、何事にも心遣いはしなくともいい、と告げられて、強いて辞退する言葉もなく、拝領を受け入れた。

結婚後、24歳の忠一と16歳の伊知は仲睦まじい夫婦となった。

伊知は気配りの利く性格で、舅姑にも孝行を尽くし、家計を助けるため自ら裁縫調食した。2年後には女子・富が生まれた。


ところが、享保12年(1727年)3月、正容の嫡子となっていた三男正甫が死去。

3か月前に五男の正房も死去していたため、伊知の産んだ容貞が嫡子となった。

これにより、嫡子生母が一家臣の妻という都合の悪い状況となった。

 

9月、伊知は召し出しにより城に呼ばれ、そのまま病になったということで、城に逗留していた。

藩の重臣たちは、一方的に伊知を召し返しては武士として笹原家の誇りを傷つけるものであり、笹原家より離縁状を出させるのが良いと考え、まず御側医を介し離縁を勧めた。

しかし、笹原父子は主君より賜った妻を離別することは不敬に当たるとして、離縁を断った。

使者が若君の御為と押し迫ると、若君の御為と言うのであれば、五年なり十年なり、一生でも奥に差し置かせるが、離縁だけはする意思のないことを述べた。

さらに、伊知が取り上げられたまま離縁せよというのでは武士の面目が立たないので、ひとまず伊知を笹原家へ返してほしいと願い出た。

藩側と笹原家の押し問答は2か月近く続き、重臣たちはついに笹原父子の訴えを藩主正容の耳に入れた。

 

笹原父子は調べのため、それぞれ家臣のところに預けられた。

忠一は調べに際し、伊知が奥を出て笹原家に帰る意志のないことを聞かされても、一旦伊知を家に返してほしい、その上で返上願いを出したい旨を申し述べたが、無駄であった。
12月5日、ついに笹原父子には、

「妻離縁の儀、厚き思召しを以て御内意仰出され候処、父子の違反不届至極に思召し、蟄居仰付けられる旨」

が言い渡され、笹原家は改易、禄を没収された。

父忠義、長男忠一、次男丈助は、滝沢組長原村に幽閉という処分が下された。

家族も罪に連座して会津居住を差し止められ、親族までも咎めを受けた。

ただ三男文蔵は、役を召し上げられたが四人扶持が下された。

その後、父忠義は享保14年(1729年)7月13日幽閉のまま死没。

享保15年(1730年)12月、忠一と丈助は幽閉が説かれ、弟文蔵に引き渡されて謹慎となった。

忠一はその後世に出ることもなく、64歳で没した。


笹原家が改易となったため、伊知は正式に城の奥に召し返され、老女並として月俸十人扶持を受け、美崎の方と称された。

享保13年(1728年)、容貞の袴着の祝いが行われたが、伊知が生母であることを公式にされなかったため、祝いの席には参列できなかった。

その春、容貞は嫡子として江戸に上ったが、伊知は会津に残された。
享保16年(1731年)9月、藩主・正容が死去したため、程なく実家の塩見家に引き取られた。

替わって藩主となったのは7歳の容貞であるが、依然として生母とは知らされず、藩主生母の待遇は受けなかった。

享保17年(1732年)1月13日、前々からの伊知の願いが叶えられ、笹原忠義の後家に三人扶持が与えられた。

同年7月13日死去。享年23。

 

舅の笹原忠義の五回忌の命日であったため、世間では、伊知が服毒したのではないかとの噂が立った。
伊知の死を巡って、藩主である容貞に知らせるべきか、幕府に忌服届を出すべきかどうか論議され、結局、容貞は定式の忌服を受けることとし、その旨を老中に届け出て、将軍家からも弔問の使者が遣わされた。

死によって初めて藩主・容貞の生母として遇され、継室に準じる扱いがされ、会津院内山へ埋葬、霊牌は浄光寺に置かれた。
元文4年(1739年)、容貞が会津へ帰国し、伊知の墓に詣でた後、正室に準じて「様」と付けて称され、その後、継室の列に加えられた。

 

 

 

さてさて。。。

 

 


馬廻役(注:戦場にあっては主君の周りを固め守る役。家中でも特に腕の立つ者を集めた精鋭部隊・・・というのは建前で、享保まで下ると、事実上、世襲制へと移行。)300石の笹原伊三郎が主人公。

演じているのは、日本を代表する映画スターの一人にして三船プロダクションの代表でもあった三船敏郎さん。

 

 

良いのか悪いのか判断に困りますが、三船敏郎さんという俳優、何を演じても同じというか演技に幅がないというか・・・

まぁ日本では、何を演じても同じといわれた高倉健さんも大スターなのですから、こういう俳優さんのパターンもアリなのでしょう。

(米国でもハリソン・フォードさんという・・・以下自粛)

 

 

その家に側用人(藩内でも最上位クラスの役人)高橋外記が訪ねてくるんですが・・・

この外記役の神山繁さんが何とも素晴らしいんです。

 

 

神山さん、知的でクールな役か冷徹な悪役がハマリ役。

終戦が近づいた頃に海軍経理学校に入学されていらしゃるんですが、当時の海軍経理学校は、超の付く成績優秀者のみが入学できるという、赤門なんか歯牙にもかけないレベルだったわけなので納得しちゃった。

森雅之さんと並んで、頭の良さが外見にまで滲み出てくる稀有な方でございました。

 

 

また、馬廻役支配の土屋庄兵衛役の山形勲さん。

もう堪りませんでございますよ。

 

 

やっぱり映画は、脇を固める悪役の方々に良い役者を配置すると、本当にピシッと締まるんですよねぇ~

映画を観るのなら、悪役をしっかり観なきゃ!!

 

 

藩主 松平正容(まさかた)の側室のお市の方の役は司葉子さんなんですが・・・

映画の演出効果のためか、あんまり美しくないです。

 

笹原家に嫁いだ頃のお市の方は、まだ16歳。

年齢ギャップ・・・あり過ぎ。

 

 

で。。。

 

 


もうひとりの主人公、いち(お市の方から元の名の「いち」に改名)の夫、笹原与五郎は、叫ぶ。

 

「いちは人形ではない。

 たとえ火の雨が降ろうとも

 応じられぬ!」

  

 

妻のいちも答える。

 

「たとえ家が取り潰しになろうとも

 与五郎様と添い遂げたい」

 

 

これはもう・・・
女人のアザゼルに泣くなという方が無理でござるよ。

 

笹原与五郎役の加藤豪さん。

失礼ながら、イモですね、役者としては。

 

でも、そのイモっぽさが、この言葉に命を吹き込むんですから・・・

映画って不思議なモノ。

 

 

小説の方も拝読いたしましたが、著名な脚本家、橋本忍さんの手によって、特に後半は全く別のお話へと変わっております。

小説では、主人公である父・笹原伊三郎と嫡男・笹原与五郎の二人は、知行召し上げのうえ押込めという沙汰をおとなしく受け入れているんですが・・・

三船敏郎さんと加藤豪さんという映画スターが演じている以上、そんな「軟」な展開で済ませるわけがございませんものね。

 

 

三船敏郎さん・・・

例によって、超人的な強さを発揮!

ちなみに映画は当時の三船プロダクションの制作なんですから、当然の展開なんですけど・・・ね。

 

 

思わず、同じ小林正樹監督作品の映画「切腹」を想起しちゃいました。

アレはアレでアレですが・・・

  

 

 

 

ところが。。。

 

 

 

三船さん・・・

その火縄銃の銃弾を、まともに6発以上も身体に喰らっているのに・・・

その後40人ぐらいの侍(馬廻役、つまり、精鋭部隊)をぶった切っちゃってんです。

 

 

当時の火縄銃は、現代と比較すれば命中精度も貫通力も段違いに低いレベル。
それでも200m先にある厚さ1cm程度の木の盾なら楽に貫通させられるほどの威力があったんです。
(だからこそ、火縄銃(種子島)の登場が戦国時代を終わらせる重要なファクターと成り得たんですもの。)
まともに当たったら、骨を砕かれる程度では済みません。

 

 

挙句に・・・

40人をたった1本の刀で・・・ 

 

 ( ゚Д゚)ハァ?

 

 彼が持っていったのは・・・

ルパン三世に出てくる石川五右衛門の「斬鉄剣」なのかもしれませんが・・・

 

 

もう勘弁してください。

設定、滅茶苦茶すぎちゃって・・・

映画的にはクライマックスのはずなんですが、途中から完全に醒めちゃったじゃん!

 

 (´・ω・`)ショボーン

 

 

史実では、織豊時代に反乱側の一人の侍が20人弱を切った、という記録も残っているんです。

でも、さすがに前述の鉄砲の件は銃弾をあれだけマトモに受けて(しかも1発は、致命傷となり得る腹部!)から精鋭部隊をガンガンぶった切るなんて・・・

 

 

このシーンさえ、この殺陣さえ無ければ・・・

当時は、コレがカタルシスを与える重要なシーンだったのでしょうが、余りにも現実から遊離し過ぎていて、アザゼルにはついていくことができませんでした。

 

 

 

でもね。。。

 

 

 

武士道とは

 

 愛のために死ぬ

 

  ことと見つけたり!

 

この新しい視点は、素晴らしいと思います。

原作を凌駕する作品へと昇華させる脚本家の力量、しかと見届けましたぞ。