xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

某有名写真家の作品展で感じた「絶望」と「光明」 ~シャシンという藝術の意味を考えるヒントとして~

展示されたシャシンから感じるモノ・・・

如何にも世間受けしそうな厭らしさ・・・

 

 

「世渡りの上手さ」だけはビンビン感じるけれど

「映像に潜む深遠さ」なんて微塵も感じられない

 

 

クダラナイ

ツマラナイ

 

 

世間に迎合する藝術など

(おカネ儲けの)道具でしかない、タダのゴミ

 

 

こんなモノを有難がるとは・・・

濁った眼には権威という名のフィルターでもかかっているのかしら?

 

 

藝術作品は、例え1000年前の過去のモノでも

その放つ輝きは、一向に褪せるコトなどない

 

 

「ヒト」(現生人類)という次元で藝術作品を眺めれば

何百年前、何千年前の作品もすべて「現在」の作品となる

 

 

「ヒト」は1万年やそこらでは「進化」などしていないのだから

「視覚」に訴える作品、シャシンでも絵画でも、何も変わらない

 

 

シャシンも絵画も、大切なのは

「永遠に動きを止めている」

ってことなんだと理解している

 

 

シャシンも絵画も、一瞬の時間を切り取った「微分」としての作品であるけれど

その本質は

「運動体であることを永遠に放棄した」

ってことにあるんだと思っている

 

 

「永遠に放棄する」ことによってのみ

「永遠を獲得する」ことが出来るから

 

 

時間的にみれば、ほんの「一瞬」を切り取ったはず

それが「永遠」を獲得するための、冴えた手法であるという事実

 

 

 

で。。。

 

 

 

「視覚」(視知覚)で得られる情報は、すべからく「目」という機関を通じて得られる

(例外は存在しない、ってところがミソ)

「目」という機関が知覚できる情報は2つ

 ① 光

  そして

 ② 色

 ・・・これだけ

 

 

視細胞のうち、「色」に反応する錐状体は、暗いところでは機能しない

だから、暗所はモノクロの世界と化す

これも理解しておくべき、「ヒト」に与えられし機能(と限界)

 

 

目から入ってきた情報は、脳内でさまざな情報と統合化される

それと同時に高レベルでの抽象化という作業も脳内で行われる

 

 

つまり、私たち人間が「見ている」と思っているモノ(情報)

それは、ありのままの姿ではあり得ない、という結論を導く

 

 

脳内で再構成された「仮想の姿」

それを共通の認識として理解する

 

 

私たちの目で見て、理解する「世界」

観念的で抽象化された「仮想の世界」

 

 

例えば、シャシン

本来は一続きであるはずの世界を、無理やり断片化させる表現手法

 

 

断片を切り取り、得られた情報がシャシン

如何にフィルターを通そうとも、表現者がどのような加工・編集を加えようとも

世界を断片化させた表現方法であることに何らの差異はない

 

 

そうであれば・・・

「神は細部に宿る」

の言葉どおり、シャシンの命は、細部にこそある

 

乱暴に申し上げれば、「質感」のこと

髪の毛1本に至るまで、毛穴の一つ一つに至るまで

 

 

本質的に2次元でしかないシャシン

奥行きを与え、あたかも3次元であるかのように脳を錯覚させるモノ

それが「質感」

 

 

でも留意するコトは、映っている被写体

それは撮影者自身でもあるっていうこと

 

 

「ヒト」は、無意識のうちに捏造しようとする

虚心坦懐にシャッターを押すことなんか・・・

現実には、ほとんど不可能に近い

 

 

だから、常に意識しておく必要がある

シャシンとして残したいモノは何か?

ってことを

 

 

リアリズムなのか

演出したモノなのか

 

 

演出したモノは、藝術足り得ないのか?

そんなコトはないでしょう、決して

 

 

演出の意味するトコロは

「現実を超える」

ことなのですから

 

 

現実と超現実の境界線は、意外なほどにアヤフヤで不明確だ

演出者自身、過去に知覚し得たレベルまでが限界なのだから

 

 

 

それに。。。

 

 

 

シャシンは断面化さえた一瞬を封じ込めたモノ

それを動画にせよ、モンタージュにせよ、時間軸の順に構成(編集)し連続させれば、動きを出す(運動体へと変化する)ことが可能・・・

そのような理解は、誤解である

 

 

1コマ1コマごとのシャシンは、やはり、何も動いてはいない

動いているように「認識」しているのは、脳の作用に他ならない

 

 

 

※1 「色」(色彩)については、未だに考えがまとまっておりませぬ。

   コレについては、書くかもしれませんし、書かないかもしれませぬ。

 

※2 本稿では、絵画について、シャシンと同列に並べるかのような表現

   をしちゃったんですが、絵画とシャシン、根本的に異なる部分が

   あることは理解してありんす。

   コレについては、書くかもしれませんし、(以下略)