xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

伊勢神宮、再び ~演出装置としての神宮~

「何事の

 おはしますかは

 知らねども

 かたじけなさに

 涙こぼるる」

西行

 

 

どのようなモノが

そこにおられるのか

私には分からない

しかし、感動の余り

自然と涙が零れてしまう

 

 

西行法師の手によるものとしては下作と言わざるを得ず

本当に彼が歌ったものかどうか・・・

かなり怪しい気がいたします。

 

 

しかしながら、伊勢神宮の本質をかなり的確についているのも事実なのかもしれません。

庶民はおろか、陛下でさえも、本当は何を祭っているのか・・・おそらくはご存じないのでしょうから。

 

 

アザゼルは過去に、伊勢神宮について、こんなことを書いていました。

 

 

 

今回はチト趣向を変えて・・・

演出装置としての「神宮」について書いてみたいと思うのございまするぅ~

 

 

 

神道において、比類なき地位を占めているのが神宮(伊勢神宮)。

別格中の別格であるため、天皇と同じく位階制度の外に置かれており、社格としては無格社ということになります。

天皇正一位といった位階を有しないのは、臣下等に位階を与える者だから。)

 

 

神道には、いわゆる啓典宗教のような教義らしい教義は存在しません。

どちらかというと土着の日本人の生活様式に根付いた美学のようなモノといえるかもしれませんね。

 

 

日本書紀でも古事記でも構いませんが、宗教的世界観(宇宙観)が非常に中途半端。

世界を形作るための根源となり得る中核を決定的に欠いており、これが日本古来の伝統とも申すべき「中空構造」を意味しているのは、皮肉に過ぎますが・・・

 

 

そんな神道において、特徴的なことを一つ申し上げるとすれば、おそらくは病的なまでの「穢れ」へのおそれ。

「穢れ」を払うものは、清浄な空間(太陽光を含む)、清らかな風と水、自然の中にあって凛とした佇む巨木と巨石。

 

 

「神域」とされる場所を穢さぬよう、ヒトの立ち入りを禁止しているのは、ある意味で当然。

ヒトの立ち入りが許される場所には、そのヒトの穢れを払う「新鮮な水」の存在が必要不可欠なのもまた当然。

 

 

社殿の前に進み出て(詣出て)、ただ頭を下げ、心を穏やかにして清浄な空間と一体となることにより、言葉ではないもう一つの表現としての「雰囲気」を感じ取って来る。

それだけのこと。

 

 

重要なコトは、社殿の中に何物が存在しているのかが大切、ということではないという点。

極端な話、社殿の中が実はカラッポでも、何ら差し支えないということにすらなり得ます。

 

 

じゃあ、対象が天皇なら?

おそらく同じでしょう。

 

 

天皇にとって大切なのは、個人の人徳でも個性でも知性でもなく、天皇として存在すること自体。

天皇としての本質は霊的存在(天皇霊)なのですから、入れ物としての肉体ではないことは自明の理。



例えば、「大祓祝詞」は犯した罪(穢れ)を祓戸四神が祓い清めるという内容。

風、水などに宿る神々が、清めてくれるのだといいます。

 

 

参拝は、己の心を「清める」ために行うもの。

古代には、神社には社殿建築は無く、五十鈴川の御手洗場で文字どおり身を清め、その先にある杉木立の中に巫女がおり、自然神を感得していたといわれています。

 

 

ガンジス川での沐浴と同じ構図が、日本にもあった。

キリスト教の洗礼も古くは川岸で行われていたことからも分かるように

 「 清める → 水が必要 」

という構図は、宗教儀式には広くみられる行為なのでしょう。

(注:宗派によっては、現在でも川で洗礼を行っています。)

 

 

日本神話の世界でも、禊が清めを意味することは同じ。

黄泉の国から帰ってきたイザナギ

禊をして、死の国のケガレを払うと・・・ 

左の御目を濯いだときに生じた神がアマテラス

右の御目を濯いだときに生じた神がツクヨミ

御鼻を濯いだとき生じた神がスサノヲ

という三貴神がお生まれなったのは、よく知られた話。

 

 

さてさて。。。

 

 

邪気の侵入を防ぐ大鳥居を厳かにくぐり、玉砂利が敷き詰められた参道を静々と進み、五十鈴川で身を清めた後、正殿へと奥に向かう。

参拝のための一連の流れの中で、「清々しい」気分へと転換させる装置として神宮は、誠によく出来ていますよね。

 

 

言葉を巧まずして申し上げることをお許しいただければ、東京ディズニーランドも真っ青になるぐらい、神宮は非常に良くできたテーマパークといえるでしょう。

自然に見せかけてはいるけれど、ヒトの手が入っていないところなど・・・ほとんどないんですもの。

 

 

ヒトの手によって常時運営・管理されている、太古の自然への回帰テーマパーク、それが神宮であり、そのミニチュア版が各地に点在する神社。

人間が考えるノイズ(穢れ)を極小化させるための工夫が随所に盛り込まれていることは、実際に参拝すれば自ずと分かろうというもの。

 

 

しかも・・・

時間も費用もかけて一体何を拝んだのか、という疑問には明確な答えは用意されていません。

皇位継承に必要とされる三種の神器の一つを拝んだのか、それともアマテラス(の依り代)を拝んだのか・・・

 

 

繰り返しになりますが、ココで重要なことは、感動の核心については、

 触れてはならない

という暗黙の了解が日本人の美学あるいは心情に組み込まれているという点。

核心部分には触れことがタブーとされるのが、日本人としての正しい在り方・・・

あるいは、日本を遍く広がる「力学」なのかもしれません。

 

 

ココに、アザゼルは日本という風土に根付いた美学(あるいは心情)をみた気がいたします。

それは暗黙の裡に行われる「秘匿する」という非常に強力な意志。

 

 

貴いから隠すのではない。

隠すからこそ、貴いのだ。

 

 

隠すからこそ、さまざまな誘惑が生じる

そこには本質的な議論など微塵も存在しない

 


「神秘」性は、ヒトの目から隠すことにより増大する。

魔術に興味におありの方なら、おそらく同意いただけることでしょう。

 

 

そして、神宮における最も神秘性の高い箇所は、ご神体でも、心御柱でもございません。

捏造された神宮の発祥にこそある。

 

 

神宮は、歴史的成立経緯について、成立当初から意図的に捏造してきた。

だからこそ、神宮は「神秘」性を獲得できたという点を見落としてはならないと考えます。

 

 

騙して隠す

 

 

コレが宗教上の「神秘」性を高める重要な要素として機能する。

記録資料で読んだオーム真理教をはじめとする新興宗教も原理的には同じ手法を踏襲していたのも、当然過ぎるほどに当然。

 

 

 

ちなみに。。。

 

 

 

かつて江戸時代には、「お伊勢参り」が終わり、大鳥居をくぐり終えるや否や、飲めや歌えのドンチャン騒ぎ、果ては賭博に女郎買いと

 貴方たちは、何のために身を清めたわけ???

と思わず要らぬ心配をしたくなるような有様だったとか。

現在の内宮と外宮を結ぶ街道沿いは、とても神域に連なるような雰囲気ではなく、

 ハメをはずしてバカ騒ぎをする場所

だったというのも・・・

 

 

禊は済んだ!

後は何をしても許されるぞ!

 

 

という発想は、現代でも選挙の際に嫌という程、見せつけられますものね。

この点では、今も昔もさして変わってはいないってことかと・・・

 

(^_^;)

 

 

アザゼルは神宮を一大テーマパークと書いたけれど、それは大鳥居の向こうの一大歓楽街と一体となっていたという事実を忘れてはいけないと思うんです。

もちろん、このような極端までのダブル・スタンダードは、日本に限ったことではございませんよね。

 

 

かつては修道女が夜のお相手もしていたという地域や時代もあったようですし。

聖性を求めたって、所詮は人間だもの。

 

(* ´艸`)クスクス

 

 

そうそう伊勢には、かつて男子諸君に人気のスポット「秘宝館」というのがあったんですって。

ある意味で最も伝統的な存在だったのかもしれませんぞ(ウソ)