xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

シャンティ・マントラ : すべての生きとし生けるものが幸福でありますように ~「煩悩・苦悩からの解脱」 至福へと至る道は、何処に在りしや~

 

 

マントラ

 

生命を持った言葉、真言のこと。

われら日本人同胞の祖先は、古代より言霊(コトダマ)信仰を有していたが故に、真言を無意識下において理解できたともいわれます。

 

 

真言は「言葉」であると同時に、「生命」でもあり、あるいは「呪怨」でもある。

般若心経の末尾に登場する「羯諦羯諦」(注:日本では一般に「ギャーティ・ギャーティ」と発音しますが、サンスクリット語では「ガテー・ガテー」と読みます。)以降も真言であり、さまざまな解釈(「意味など無い」という解釈も含む)が可能。

 

 

真言と唱える場合、反復して唱える(念誦)が多用されます。

一般にこれをジャパあるいはジャバと呼んでいますが、この様式は神道祝詞でもみられるもので、聖なる言葉(もしくは神名)を反復して唱える、すなわち、念じることにより、聖なるモノ(精霊・聖霊・天・神)との交わりを実現せんとするものです。

 

 

人間には不可知であり不可触であり「聖なるモノ」と、物理的実態を有しない精神の領域において交わることができれば、一切の煩悩・苦悩からたちどころに開放され、最高の至福を体現せしめる・・・らしいんです。

 

 

「そんなことよりカネが欲しい」

 

 

ちなみに、こんな『煩悩まみれ』の願い事をかなえようとする真言なんて・・・

実はあったりします。

偶然に生じ、必然に滅す・・・

そんな不条理の中でしか存在することができない人間には、あるいは無理からんことなのかもしれません。

 

 

真言修養の中には、

・高位の尊者から直接授からないと効果が期待できない

・長い長い期間、唱え続けなければならない

・在家の者では効果の発言可能性は非常に低い

といった説明が実際になされています。

 

 

このような説明あるいは教えは・・・

本当でしょうか?

 

むしろ権威主義教条主義に陥ったクダらぬものでしかないのでは?

しかも、他者に依存しようとする「己の心の脆弱性」をも露呈しちゃっているのではないかしら・・・

 

 

誰に教えを乞うたのか、そんなことは大した意味を持たない。

道端に落ちていた紙切れに書かれていたものでも、路傍の石に刻まれていたものでも、何も差異もありはしない。

 

 

長い修行時間など、もとより不要。

たとえ世俗にまみれ、他人を陥れて金品を奪い、それどころか生命さえも奪った人間であろうとも、汚れ切ったと思い込んでいた己の心を、あたかも風一つとしてない水面のように凛として見つめ、すべてを捨てて救済を求めるならば、たった一度唱えるだけでも構わない。

 

 

己の心を「空」にするからこそ、聖なるモノのバイブレーションを素直に受け入れられる余地が生まれる。

権威などにすがっているようでは、いつまで経っても「空」など理解しようがありません。

 

 

真言発祥の地、インドですら、真言の効果を発言せしめるためには、最低でも数万回、それも陽の昇る前に念誦が必要とされています。

 

 

修行すれば救われる

出家すれば救われる

 

 

いくら努力しようが、その方向が間違っているのならば、何の成果も上がらるはずがございません。

 

 

「だからこそグル(導師)が必要 なのだ」

 

 

アザゼルは、その考え方にも同意し難いモノを感じます。

「解脱していない者」に、他者を導く力などありましょうか?

(解脱したとうそぶく者は、ゴマンといますが、本当に解脱に至った者など・・・)

 

 

例えば・・・

大きなお寺の住職の子供に生まれれば、自ずと聖性は備わっているものなのでしょうか?

あり得ません。

 

 

すべての虚飾を脱ぎ捨てた、裸の己と向き合う覚悟を持つコト。

必要なコトは、ただそれのみ。

 

 

グルは必要ありません。

教団も必要ありません。

 

 

 

それでは。。。

 

 

 

最後に「般若心経」を唱えて終わりにいたしとうございます。

 

 

悩むんじゃないよ

だって・・・

最初から全部OKなんだから