xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

『見る人も なくて散りぬる 奥山の 紅葉は夜の 錦なりけり』(紀貫之)を取り上げた、ふにやんまー様への返歌 ~古今和歌集を取り上げられるとは・・・イケてますね~

 

 

この歌は「古今和歌集」に収録されているモノ。

 

 

詞書には、こう記されています。

『北山にもみぢ折らむとてまかれりける時によめる』

 

 

京都の北に出向いちゃってさ

紅葉狩りしちゃうぞー!」

ってときに詠んでみた

 

 

というアザゼル訳では、「平安の雅」も何もあったものではございません。

( TДT)ゴメンヨー

 

 

MS-Wordの変換能力の無さには、ホトホト嫌気がさします。
 『ハナシコトバ』と入力しても「詞書」が出てきやしません・・・
 ヽ(`Д´)ノプンプン

 

 

 

でもね。。。

 

 

 

歌を鑑賞する場合、詞書を合わせて読んでおかないと、その歌が詠まれた背景を十分に理解することが難しくなってしまいます。

北山が具体的に何処をさすのか、とか、紅葉狩りなんて貴族趣味的で嫌だ、とか、そんな個人的な探求心なり思想性は、ポイッ!しちゃってくださいませ。

 

 

見る人も 

なくて散りぬる 

奥山の 

紅葉は夜の 

錦なりけり

 

 

さすが古今和歌集に収録されている歌だけあって、イイ歌だなぁ~って思えてきません?

敢えて訳しちゃうと、こんな感じ。

 

 

紅葉ってさ、スッゲー綺麗じゃん。

でも・・・

でもだよ。

いくら綺麗だからって、見てくれるヒトがドコにもいなけりゃ

マジ、そんなの無駄じゃね。

哀れすぎちゃって、こんなオイラもナンつーか・・・

こうメランコリックつーか、感傷的つーか

ほら、あんじゃん。

急に「眼に涙」つー感じ?

そんなこと、思ちゃったわけさ。

 

 

えー

繰り返しになりますが、アザゼル訳につきましては

( TДT)ゴメンヨー

 

 

この歌のポイントは、綺麗な紅葉ではございません。

 

『夜の錦』

 

ココです。

 

 

平安時代「夜」は、現代とは比較対象にならないぐらいの暗闇の中にあった。

そんな暗闇に覆われた「夜」に、ヒトが「ハッ!」としちゃうぐらいに綺麗な錦の衣を纏っていても、トーゼン、誰も気づいてはくれません。

 

 

和歌において「夜の錦」とは、

 

「全く無駄な存在(あるいは行為)」

 

を意味することを知っていれば、この歌の

 

イイタイコト

 

が容易に分かりますよね。

 

 

和歌は、その構成上、字数が非常に限られているのですが、だからこそ、読み手はもとより、聞き手側の知識と理解力、そして何より

 

「古代から連綿と受け継がれてきた、言葉にはし難い感覚」

 

を身に付けているかどうかが問われるんだと思うんです。

 

 

 

 

しかもね。。。

 

 

 

この「夜の錦」という言葉。

実は日本人が独自に編み出した言葉ではございません。

 

中国の史書「史記」からの引用なんです。

アザゼルには、その深遠に触れることなど到底できはしませんが、当時の日本の知識人層は中国の古典にまで精通していたからこそ、こういう歌を詠うことができた・・・

ホント凄くないですか?

 

 

 

で。。。

 

 

 

ココで

「チョット待てよ。

 そんな暗い、マジdarkな夜に

 モミジなんか、見えるわけねーじゃん!」

と思ちゃった貴方・・・鋭い!

 

 

この歌の本意が、単に「モミジ」を詠ったモノではない・・・

とすれば、この歌は、次のように解釈することが可能になります。

 

 

「あぁ・・・

 俺ってば・・・

 人知れず

 奥山で散っていくモミジと同じ

 (正当に評価するヒトさえいれば・・・

  悔しいけれど・・・)

 夜の錦

 じゃん・・・」

 

 

ホラ、途端に深くなってきたでしょう?

和歌の面白さは、多義的解釈が容易に可能であることなんですもの。

 

 

 

しかもね。。。

 

 

 

もうコレ以上は詳しく書きませんが、この歌は詠んだであろう「状況」は、まだまだ多義的に解釈可能。

詞書では「北山」と書いたのに、歌では「奥山」と記したのは何故か?

紅葉はすでに散っていたのか、それとも、これから散っていくであろうとみたのか?

etc.

 

 

 

というわけで。。。

 

 

 

返歌

 

 

見る人も

なき山里の  

桜花

ほかの散りなむ

のちぞ咲かまし

 

(伊勢)