xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

旧ソ連映画「アンドレイ・ルブリョフ」をふたたび観る ~旧ソ連が誇ったタルコフスキー監督の傑作は、公開後半世紀近くを経た今も一向に色褪せない~

 

 

アンドレイ・ルブリョフ Blu-ray

 

 

アザゼルは、男性の監督の場合、

(1)異性、すなわち、女性を描けない

(2)ノスタルジー、すなわち、歴史を描けない

そんな監督は二流以下だと信じて疑いません。

 

 

上記(1)は、生物的に永遠に成ることのできず(※性転換手術なるものは、あくまで外見上の見せかけを変えるだけの行為に過ぎません。)、いくら物理的挿入(性行為)を行おうとも物理的一体には成れない(=融合できない)が、常に身近にいて決して無視することができない存在について、(2)は、自己(あるいは自我もしくは意識)とは何か、自己に含まれるのことない他者とは何か、そして、あらゆる事象の総体である世界(あるいは神もしくは不可視の存在)とは何かについて、深い見識をもって、シャシンという表現方法と正対することは、表現者としての最低限の所作であると考えているから。

 

※「ノスタルジー」の表現に、形而上学的観点が必要な理由は、後ほど簡単に述べます。

 

 

例えば(1)の場合、オンナが登場しない、あるいは、何処にもいそうにないオンナばかり登場するシャシンの場合、画面が余りに渇き過ぎる結果、どうしても浮世離れし過ぎてしまい、地に足のついていない中途半端なシャシンになってしまう。

一方(2)の場合、シャシンに限らず、自己との対話(ダイアローグ)による「存在することの意味」を探る旅(知的冒険)に出なかった程度の人間が撮るようなシャシンに深みなど出ようはずもありません。

 

 

本来2次元でしかない表現方法のシャシンに対し、本来あり得るはずの無い「深み」つまり「奥行き」感を与えるモノは、監督でも俳優でもありません。

シャシンに「奥行き」を与える者は、映像・音楽・ストーリーによって与えられた「何か」(別にインスピレーションでなくとも一向に構わない)について、独自の意味付けを行い、新たな物語へと再構築を行う観客自身。

 

 

観客は、同じシャシンを観ながら、誰一人として同じ物語を脳内で描き出してはいません。

極めて乱暴に「解釈」という言葉をあてるならば、解釈というフィルターを通すことなく、人間は映像も、音楽も、ストーリーも受入れはしないんですもの。

 

 

それに忘れてはならないことは、シャシンは純然たる藝術ではあり得ないこと。

シャシンは、純粋な藝術としての条件を根本的に欠いているんです。

 

 

シャシンはあらかじめ観られるコトを前提として成立し得る表現方法であるのに対し、

純粋な藝術表現は、観客の存在など必要ありません。

シャシンは、観客という第三者の存在があって初めて成立し得るモノであり、完成するモノだという点は失念したくないですよね。

 

 

シャシンは常に観客、つまり「大衆」の存在を意識しなければならず、大衆の好み(ココでは「時代の風潮」でも何でも良い)に大きく左右されやすいコトも同時に理解しておく必要があります。

また、(現在でも中国などではその傾向が鮮明ですが)旧ソ連の場合、当局による検閲が非常に厳しく、公開にたどり着くまでの道のりは、決して平坦なものではなく、困難を伴うものだったことも、併せて理解しておく必要があると思います。

 

 

ココで、ノスタルジーのことについて、少しだけ補足しておきます。

 

 

およそ社会には矛盾が存在します。

もっといえば、社会には存在と同時に不条理が必然的に生じます。

 

※ココでいう「社会」とは、あらゆるコミュニケーションの集合。

 だから、社会には全体集合だけでなく、部分集合としての社会が定義上成り立つ。

 家庭も社会なら、ご近所も社会ですし、国だって社会。

 もっと分かり易くしちゃうと、係も社会なら、課も社会。局も社会なら省も社会。

 

 

ノスタルジーは、ある意味で「喪失」の物語。

滅茶苦茶乱暴(テキトー)に申し上げれば、

 「失うことでしか、大人になれない」

って感じ。

 

 

でね・・・

冒頭でノスタルジーを歴史だなんて、乱暴に等式で結んでしまったけれど、白状すると、コレは間違い。

ノスタルジーは、別に過去のモノである必然性なんか無いんです。

 

 

ただ、そう考えた方が比較的容易に理解できる・・・

だから、歴史を引き合いに出しってわけ。

 

 

未来にだってノスタルジーはあり得るのか?

その答えは、同じくタルコフスキー監督の手による「惑星ソラリス」の中にあると確信しています。

 

 

閑話休題・・・

自分が所属している社会において、除去することが極めて困難な矛盾や不合理を眼前にしたとき、ほとんどの人間は

 「闘争」ではなく「逃走」

を選択しちゃうんですよねぇ~

アザゼルなんか、その典型・・・(;^_^A )

あたかも、大衆から罵倒されながら十字架に磔にされようとするイエスについて、

「あんな奴、知らない」

と臆面も無く嘘を並べ立て、自己保身のために見捨てて逃げたペテロたち使徒のように。

 

 

それなのに「逃走」した事実は、いつのまにか美しい「偽」の物語へと脳内で再構築され、口の中いっぱいに広がる甘酸っぱい感覚をもたらすノスタルジーへと変換される。

そして、やはりほとんどの人間は「忘却」という方法によって、罪(※恥の意味ではない)の意識から逃れようとする。

 

 

でもね・・・無理なの。

「逃げ出した自分」という存在自体への贖罪の意識は、忘れたつもりになっていても、不意にフラッシュバックしてくるんですもの。

 

 

ある意味、「バカなアタマ」の持ち主の方が、生きていくうえで遥かに楽でしょう。

罪を罪として認識することなんて出来はしないでしょうから。

 

 

そんなノスタルジーを描こうとすれば、逃げ出した自分という存在をどう対応(というより処理)すれば良いのか・・・

考えちゃいますよねぇ~

 

 

えっ!?

「なんで、ノスタルジーが逃げ出した自分と関係あるんだよ?」

ですって・・・

 

 

 

それはね。。。

 

 

 

シャシンだろうが小説だろうが、如何なる媒体形式を採用しようとも、己の表現できる範囲は、半ば必然的に己のことに限定されるから。

オトコに、ホントのオンナは永遠に描けないように。

 

 

オトコが描くオンナは。監督の頭の中で解体され、再構成された観念上の存在でしかない「オンナ」

これは、形而上的な問題、例えば「世界」という、あらゆる表現方法の(仮に何も触れずにいようとしても必ず)背景として厳然と存在するものを考える場合でも、何の差異もありません。

 

※ココでいう「世界」は、様相論理学における可能世界の全集合とご理解いただけると分かり易いかと思います。

 

 

また、シャシンにおいて、より重厚な歴史解釈を行おうとすれば、どうしても哲学的あるいは神学的な論点へと行き着いてしまう。

前述のとおり、一人の人間が描ける「世界」なんて、実は「自分」という矮小化された範囲のものでしかないから。

 

 

もちろん、ノスタルジーを「逃避」と安直に結び付けて良いのか?という疑問・・・

湧いてきちゃいますよね・・・きっと。

 

「逃避」に依存しないノスタルジーだって・・・多分あるでしょうから。

それでも、自己正当化のための方法としてのノスタルジーは否定できないんじゃないかしら? 

 

 

 

おっと。。。

 

 

 

いつものように、脈絡も無くグダグダといたずらに筆を進め、文字どおり、書き散らしてきたわけなんですが・・・

コレ、ぜぇ~んぶ、前置き。

(長すぎ!) 

 

 

今回取り上げさせていただいた「アンドレイ・ルブリョフ」

アザゼルは、文句なく傑作だと思いましたし、語彙の少ないアザゼルには、それ以外の表現方法が見つかりません。

 

 

タルコフスキー監督が得手とする、「水」をモチーフにした抒情的に過ぎるほどの映像美。

空撮による鳥瞰的視点から、世界における人間の脆弱で小さな存在でしかないことを嫌でも分からせる手法。

 

 

ホント・・・嫌な監督。

だって、いつのまにか、監督の掌の上で転がされているんだもん。

 

 

それにね・・・

「鐘」の章で、何故、イコン画家のルブリョフとは何の関係も無い、教会の「鐘」の製造の場面を延々と描いたのか、分からない方もいるかもしれないけれど・・・

アレこそがタルコフスキー監督の偉大さ。

 

 

一度は現世に絶望し、自ら筆を折ったはずのルブリョフ。

彼が自らの意志で再び筆を取り、東方正教会における最高傑作と称される「至聖三者」を完成させるに至ったのか・・・

 

 

その過程で必要なモノこそが、一見すると何の関係もない、あの「鐘」

聖なるモノ、神性を持つモノの顕現には、洋の東西を問わず「しるし」が必要だから。

 

 

エスの象徴が供儀となる「子羊」であるように、ルブリョフの「復活」にも何らかの「みしるし」が啓示されたはずである。

それは、ドーでもイイようなものではダメ。

 

 

駆け出しの若造、職人とも呼べない程度の技量しか持ち合わせていない「小僧」が、成り行きで全体を指揮する親方に抜擢された。

普通なら、まともな「鐘」など出来ようはずもない・・・

 

 

それどころか、周りの熟練の職人たちの反対を押し切ってまで挑戦した彼の営みは、見事な「大鐘」となって結実する。

あの「鐘」を鳴らすシーンは、あり得ないはずのことが顕現したことを象徴している。

 

 

つまり・・・

あの「鐘」こそは、ルブリョフの「復活」を祝す「みしるし」

神聖なるモノの象徴であり、まさに「イコン」

 

 

もっと言えば・・・

ルブリョフの「復活」は、あるいは、「永遠回帰」の再生劇すら想起させてくれます。

だからこそ、「みしるし」は奇跡でなければならなかったんです。

 

 

「オマエ、何を言ってるのか、サッパリ分からんぞ!!」

 

 

そう思っちゃった貴方。

そう、こんな駄文をココまで読んでしまった貴方。

 

 

もう観るしかないわね、このシャシン。

とにかく安っぽいヒューマニズムしか背景に持たず、ドーしようもない映像のタレ流し状態の情けない日本映画の惨状に嘆く前に、このシャシンを観て、映像の魔術に身を委ねませう。

 

 

 

ちなみに。。。

 

 

 

アザゼルは、このシャシンの影響ではなく、「至聖三者」のイコンのことをキリスト教藝術の最高傑作ではないかと考えてきました。

聖なる簡潔さと絵画に秘められた象徴という意味で、コレに比肩し得るモノは・・・そうそうあるものではございません。

 

 

 

 

もっとも・・・

この「至聖三者」・・・

実はルブリョフの手によるものではないとの見解の方が有力・・・

現実って、シャシンなんかより遥かに残酷なんです。