xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

「沈黙」(遠藤周作)を読み直す ~もし、この作品に出合わなければ、私の人生の半分は色褪せてしまっていたでしょう~

沈黙 (新潮文庫)

 

 

 

 

神を信じ、神の言葉を実践している「よき人」

「義人」だと称賛される方が、どうして災厄に襲われるのでしょう。

 

 

 

それは「神がいないから」?

それとも、「神の定義が間違えていたから」?

 

 

 

 

この問題は、次のように言い換えることも可能です。

 

 

 

神の存在を、人間は証明できるか?

それとも、人間には神の存在を証明することなど永遠に不可能なのか?

 

 

 

例えば、旧約聖書ヨブ記

その問題を解決しようとして、見事なまでに自滅。

 

 

 

 

 

旧約聖書および新約聖書を通じて、「ヨブ記」ほど神の存在証明に関して論理破たんしていることが鮮明に露呈しているものはない、と申し上げても、おそらく過言ではないでしょう。

 

 

 

もっとも・・・

 

実際には旧約聖書の「神」自身、複数形(多神教時代の名残り)になったり単数形(唯一神教への移行)になったり、自分で創造しておきながら人間を滅亡させようとしたり、そのくせ人間を愛していると言ってみたり・・・

 

もう滅茶苦茶。

 

 

 

神学者(および聖職者)は、これを英知を尽くして、論理破綻しないよう宗教的解釈を構築していますが、人間は「他人を騙す」ときほど知恵を働かせることはないのと同様、根拠が希薄というより、独断と解釈する他はないレベル。

 

 

 

だからキリスト教は・・・

 

などと考えるのは正しい態度とは思えません。

神道に至っては、ただの「神様ごっこ」に過ぎないのですから。

 

 

 

天皇が神だというのなら、死ぬはずなどありません。

大嘗祭において「天皇霊」が正統たる継承者の肉体と合一することによって、はじめて天皇となる(歴史上、大嘗祭を執り行えなかった天皇のことを「半帝」などと称した。)という、これまで連綿と続けられた解釈なら、天皇を退位した方は「ただの人間」でしかありません。

 

 

 

最近の出来事を振り返れば・・・

 

人間サイドの都合で天皇になったり退いたり、しかも、そんなご都合が政治の世界で許すだの許さないのだのゴタゴタやっているレベルで、神聖性自体が疑われてしまいます。

 

 

 

付言すれば、「神様ごっこ」が神道の本質であろうとも、アザゼル天皇制を強く支持しています。

天皇の本質を、日本国における天下万民のための「祭祀王」だと考えるが故です。

 

 

 

 

閑話休題。。。

 

 

 

神学者が何を言おうと、聖職者が如何に説教しようとも

「神がいるというのなら、私に神を見せてみろ」

と問うたとき、例え、ローマ教皇(日本では法王が公式名称)でも、東方正教会の最高権威者であるコンスタンティノーポリ総主教でも、絶対に不可能です。

だって、現教皇も前教皇も、「私はまだ神を見たことがない」とおっしゃっているのですから。

(コンスタンテノーポリ(現イスタンブール)の総主教に至っては、トルコの法律に従い、若き頃は徴兵により軍務についていたという状況。)

 

 

 

「神の存在証明」

 

 

 

この問題について、紀元前の昔から、さまざまな証明(と称するもの)が行われてきました。

しかし、これも前述と同様、そのほとんどが存在証明というより、単なる思い込み、根拠を差し示すことのできない独断であると結論付けざるを得ないものでしかありません。

 

 

 

 だからといって

「そもそも神などいないのだ」

と短絡的に考えることが妥当であるといえるのか・・・

おそらく、この反証を差し示すことも不可能でしょう。

 

 

 

もとより・・・

超越的な絶対者たる神など、旧約聖書に登場する人間と同じような姿をした神など、どこにも存在しないのかもしれません。

 

 

 

それでも・・・

「神の定義」

を見直せば、あるいは経験的に神が存在することを、文字通り皮膚感覚で理解できるかもしれません。

 

 

 

ただ、そんなものは極めて俗人的なもの。

その他の者には、いくら言葉を尽くそうとも

「理解することができない」

ことは容易に理解できますよね。

 

 

 
いくら神に祈ろうとも

いくら神の言葉(聖書等)に従い正しく生きようとも

なぜ神は、奇跡も、そのお姿も、決してお見せにはならないのでしょう・・・

 

神は、どうして『沈黙』し続けているのでしょう・・・

 

 

 

一方で、神が沈黙し続けるからこそ、成立し得るモノが存在します。

 

「自然科学」

 

自然科学の存立基盤は、この「神の沈黙」を前提としています。

 

 

 

スピノザが唱えた汎神論のように、神は「自然」のすべて、つまり神羅万象たる宇宙全体のことだと主張しても、そこから発見できるのは、

自然法則」

のみ。

だからこそ、自然科学が成立し得る。

 

 

 

自然法則を超越する絶対者たる神が登場した時点で、すべての自然科学、数学も物理も化学も生理学も根底から瓦解してしまいます。

如何なる自然法則をも超越し(束縛されず)、己が意思のみによって世界のありようを如何様にもできる絶対者が存在することを、人間が獲得してきた自然科学の力で説明することなど絶対に不可能だから。

 

 


存在するか否かともなく・・・

「神が沈黙し続ける」

ことを前提としなければ存在できない自然科学分野。

これが神の奇跡やら神の降臨やらがなければ意味をなさない信仰分野と親和性が高いわけがございません。

 

 

 

事実、カトリック教会(というよりローマ教皇庁)では、19世紀以降に急激に発達した自然科学の知見を背景として欧州で反教会主義が隆盛すると、その反発から非常に保守的な態度に終始しはじめます。

近代主義を採用し、現在に至るまで(確かに一部を緩和し、受け入れる姿勢をみせたものの)その基本的な態度は現代に至るまで変わってはいません。

 

 

 

しかも。。。

 

 

 

神が唯一絶対の存在ならば

我々の理解を遥かに超越した高次元の存在ならば

「悪魔のような敵対者」

をわざわざ作り出す必要などあり得ませんものね。

 

それでも敢えて作り出したというのなら・・・

それこそ前述の「ヨブ記」のとおり、神は変質者あるいは多重人格者もしくは性格破綻者、もっと正確に申し上げれば、統合失調症(かつての精神分裂症)を患った危険な存在になってしまいます。

 

 

 

神は何故。。。

 

 

 

中世欧州を暗黒時代へと誘った黒死病ペスト菌に感染することで発症。世界史上、何度も大流行し、最近では90年代にインドで流行しパニックが起きた。)

世界規模でのパンデミックを引き起こしたスペインかぜ(発生源は米国。世界規模での感染爆発へ。感染者は当時の世界人口の約30%に達し、死亡者は正確な統計が存在しないが約5000万人~1億人と推計されている。)

かのような疫病で人間が苦しみ死ぬことを良しとするのか。

 

 

 

しかも有史以来、人間のあるところ

戦争や騒乱

社会の矛盾や不正

暴力やいじめ

それらを根絶すどころか、ただ放置することを良しとするのか。

 

 

 

われら日本国民を恐怖に陥れ、罪もない人間を何万人も死に至らしめ、何十万、否、難百万もの人間の生活基盤を瞬時に奪った

東日本大震災

あのような自然災害が起こることを、ただ観察するだけに留まるのを良しとするのか。

 

 

 

神は「全知全能」ではないのか・・・

もし「全知全能」でないのならば・・・

そんなものが神であるはずがない。

 

 

 

人間の能力では推し量ることのできない

「神のみぞ知る」

ような深遠なものであったとしても、そこには

「人間にとって救いがない」

ことになるのだから、いずれにしても

「神は崇めるに値しない」

ものだと判断せざるを得ないことになってしまう。

 

 

 

「沈黙する神」

 

 

 

神学者は、この状況を英知の限りを尽くして

「言い繕ってきた」

神学者自体、神を見たことも、神の声を聴いたことも無い。

その言葉には、神秘主義に至ろうとも、神の意志など微塵も含まれてはいない。

 

 

 

さぁやっと、今日の本題。。。

 

 


異教徒に迫害される「義人」たち。

彼らは信仰に従い「正しく生きよう」とすればするほど、待ち構えているのは想像を絶するほどの異教徒からの責め苦であった。

 

 

故・遠藤周作さんの珠玉の作品「沈黙」

 

 

江戸時代の長崎およびその周辺地域。

踏み絵を迫られるキリスト教徒たち。

 

 

試される

神への忠誠の強さ

己の信仰心の強さ

 

 

異教徒に嬲り殺しにされる

という極限の選択を迫られる状況ですら

「神は沈黙し続ける」

のは、なぜなのか・・・

 

 

彼らは咎人ではない。

むしろ義人である。

 

 

彼らが悲惨な最期を遂げようとする間際ですら、

「神は沈黙を選択する」

そして、多くのキリスト者を転向させ、殺した者が認められ、出世していくという現実。

 

 

これを「矛盾」とみるか。

それとも「当然」とみるか。

 

 

いずれも選択は可能。

立証することも反証することも不可能な命題を前にしたとき

どちらを選択するのかは、その人の判断に任せる他はありません。

 

 

 

「神は、なぜ沈黙し続けるか」

という命題以前に

「神は存在するのか」

という根源的命題すら

本質的に科学の分野で取り扱うべき問題ではあり得ません。

 

 

 

立証も反証もできないような「雲をつかむ」が如き命題は、論理空間(すべての論理的可能性が満たされた空間のこと)では有り得ても、意味を有しません。

論理空間でのみ可能性が見いだせる、現実には無意味な言葉の羅列でしか過ぎない・・・というのは言い過ぎでしょうか。

 

 

 

もちろん・・・

 

このような状況を前にしたとき、

「だからこそ、神は人間に自由意思を与えたもうた」

と解釈することすら可能でしょう。

しかしそれは、もう完全に神学レベルのお話でしかなく、現実世界では何の意味も持ちません。

 

 

 

そのとき。。。

 

 

 

思い出されるのは

「救世主(イエスのこと)の十字架上での最後の7つの言葉」

 

 

ちなみに、この『7』という数字

後々非常に重要な意味を持つのですが、今回はそのお話は割愛いたします。

なお、「ドイツ音楽の父」とも称される、ハインリッヒ・シュッツ(愛称:サギタリウス)(1585ー1672)の傑作にも「十字架上の七つの言葉」があります。

 

 

 

 

できれば音楽を再生しながら、お読みくださいませ。

 

 

 

①「父よ、どうか彼らをお許しください。

  彼らは自分が何をしているのか、分かっていないのです。」

  (ルカ23.34)

 

 

②「あなたに教えましょう。

  あなたは今日、私とともに楽園にいるのです。」

  (ルカ23.43)

 

 

③「ご覧なさい、あなたの子です」

 「ご覧なさい、あなたの母です」

  (ヨハネ19.26-27) 

 

 

「神よ

  神よ

  どうして私を見捨てられたのですか。」

  (マルコ15.34) ※(マタイ27.46)

 

 

⑤「渇いている」

  (ヨハネ19.28)

 

 

⑥ 「終わった」

  (ヨハネ19.30)

 

 

⑦「父よ、わが霊を貴方のみ手に委ねます」

  (ルカ23.46)

 

 

 

公会議において正典とされた4つの福音書

教祖であるはずのイエスの最後の言葉は、初心者なら困惑を覚えるほどに統一されていません。

 

 

 

堕落したユダヤ教を正そうとした改革者

ときには暴力の行使も厭わなかった革命家

すべての人類の原罪を背負って十字架にかけられた救世主

 

エスをどのように理解しようとも

彼の最後の言葉がバラバラであるのは・・・

 

 

 

余談ながら。。。

 

 

 

聖書研究における「二資料仮説」によれば、まず「マルコの福音書」が成立。

マルコの福音書(原マルコ)を参考に、それとは別にイエスの言行録(Q資料)も利用しつつ、マタイの福音書とルカの福音書がそれぞれ独立して編纂されたとされています。

 

 

 

第四福音書とも称される「ヨハネ福音書」は、磔刑に処されたイエスをマリアとともに看取った使徒ヨハネの手によるものとされていますが・・・

他の3つの福音書(共観福音書といいます。)とは内容自体が異なっています。

エスが完全無欠のスーパースターとして描かれており、救世主としての言行にも矛盾が少ないため、かのマルティン・ルター以来、特にプロテスタント各派では「ヨハネの黙示録」を重視する傾向が色濃く見られます。

 

 

 

しかし、「ヨハネ福音書」は、正典とされる福音書の中で最後に制作されたと考えるのが、ローマ・カトリック教会でも受け入れられている一般的な解釈です。

成立時期は、西暦120年~160年ごろ。

 

 

 

ヨハネ福音書」は、いわば原始キリスト教におけるロック・ミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」のようなもの。

記者のヨハネ使徒ヨハネとは全くの別人)が原作である共観福音書をもとに、記者自身の思想に基づく大胆な創作を加えて完成させた、壮大な戯曲。

 

 

また脇道に逸れますが、1970年に発売されたLPレコード『Jesus Christ Superstar』は、ディープ・パープルのイアン・ギランさんをイエス役に迎え、なんとビルボード誌で年間アルバム部門1位を獲得。

 

ヨハネ福音書」も、福音書の中でもっとも説教がしやすいおかげで、聖職者の間では大人気というのも・・・

結局、人間って、全然変わんない(聖職者も一般人も同じな)のねって思えてきます。

 

 

 

おっと・・・

またまた閑話休題

 

 

 

ここで重要な言葉は、いうまでもなく

④「神よ
  神よ
  どうして私を見捨てられたのですか。」

 

 

 

でも間違えてはいけないのは、

「どうして見捨てたのですか」

という箇所が重要ではないこと。

 

 

 

大切なのは、呼びかけた対象が

「父」

ではなく

「神」

となっている点。

 

 

 

神の子であるはずのイエス

救世主であるはずのイエス

 

 

 

彼が救わんとした民衆から徹底した辱めを受け、

占領軍であるローマ兵士の手で十字架に磔された後

最後に彼が絶叫して果てた、生前最後の言葉が

「神の子」としてではなく

「一人の人間」としてのものだった

それこそが大切なのです。

 

 

 

これは一般的に、全人類に課せられた原罪(アダムとイブが楽園で犯した罪)を彼一人が背負って自ら人間としての死を願ったが故・・・

などと解釈されております。

一方、少数ながら、それがイエスという人間の限界であったと解釈する向きもあります。

 

 

 

長々書いてまいりましたが、少なくともこれらのことが頭に入っていないと

「沈黙」

を理解することはおろか、何を言いたいのかを朧気ながらにも掴むことは・・・

かなり厳しいように思います。

 

 

 

「沈黙し続けることを選択する神」

 

 


それでもなお・・・

 

目の前で繰り返される凄惨な仕置

惨めに殺されていく仲間をみても

次は己が責め苦に遭うと思うても

 

信仰を捨てようとはしない強さは、何に起因しているのでしょう。

 

 

信じられないぐらいに無知だから?

生きていくことが苦しいぐらいに貧困だから?

 

 

おそらく・・・違う。

彼ら彼女らの心の底にしっかと根を張る『想い』があるからなのでは?

 

 

 

『神は、きっと・・・

 私たちの想いを聞き届けてくださり

 沈黙を破って、我らの前にご降臨くださる』

 

 

 

そう思わなければ、彼ら彼女らの恐ろしいほどの頑なさを説明することが、アザゼルにはできません。

信仰を捨てずに死ねば、楽園に行けると教えられたとしても、誰一人として実際に楽園に行けた人間を実際には見ていないわけなのですから。

 

 

「神の沈黙を破る」

 

 

その動機無しに、あれほどの頑なさをどう説明しようというのでしょう。

事実、潜伏中の司祭はこういったではないか。

『いつまでも、あなたたちを主は放っておかれはしまい。

 (中略)

 主はいつまでも黙っておられないのだ。』 

 (新潮文庫 P165)

 

 

 

しかし。。。

 

 

 

『沈黙』が出版されたとき

ローマ・カトリック教会から危険視されたことは記憶にとどめておいて良いと思います。

しかも、物語の場所とされた地域では、書店に並べることすら憚られたたほど。

 

 

 

それはそうでしょう。

だって

 

『切支丹が滅びたのはな、お前が考えるように禁制のせいでも、迫害のせいでもない。

 この国にはな、どうしても基督教を受け入れぬ何かがあったのだ。』

 

とまでいわれては。

 

 

で・・・

本稿の前段で神道は「神様ごっこ」だと申し上げたのですが、あれは余談などではなく、実は『沈黙』を理解するためには分かっておかなければならないこと。

 

 

 

『日本人は人間とは全く隔絶された神を考える能力を持っていない。

 日本人は人間を超えた存在を考える力を持っていない。

  (中略)

 日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。

 人間と同じ存在を持つものを神とよぶ。

 それは教会の神ではない。

  (中略)

 たずさえてきた苗はこの日本とよぶ沼地でいつの間にか根も腐っていった。』

 

 

 

この神の変質化については、すでに日本で布教していた宣教師たちも気づいていたこと。(彼らは非常に多くの書簡を本国に送っていたので、彼らの考えや日本への侮蔑などが当時の資料として分かっています。)

故・遠藤周作さんは、それを下敷きにして、かくの如くお書きになったのでしょう。

 

 

 

もし本当に踏み絵のイエス

『踏むがいい。

 お前の足は今、痛いだろう。

 (中略)

 私はお前たちのその痛みと苦しみを分かちあう。

 私はそのためにいるのだから。』

と仰るというのなら、キリスト教は成立し得ません。

 

人間は、知らず知らずのうちに欲望やら邪心が芽生え、その誘惑の前に立たされています。

 

高慢「私は他の人間とは違う」

物欲「アレも欲しい、コレも欲しい」

妬み「アイツを追い落としてやりたい」

憤怒「ブッ殺してやるっ!」

肉欲「あの女を抱きたい」

大食「今日は喰うぞー!」

怠惰「やる気がしねぇ」

 

もし、弱き者の立場にキリスト(救世主)が立ってしまったら・・・

人間は『7つの大罪』を拒否することが困難になってしまいます。

キリストが、人間の行動規範を指し示す存在でなかったとしたら、斯様なものを信仰する理由など、何処にもないのですから。

 

 

 

賛否両論が噴出する作品、それが極端なまでに噴出する作品は、それが取り上げたテーマの本質あるいは深淵を取り上げていることの証左であるといえましょう。

 

特に「神」について考えることは、この「世界」そのものを考えることなのですから、その論点の広がりと深さは他に例をみないものと申し上げてもよろしいかと。

 

 

 

最後に。。。

 

 

 

「第三の男」を書いた故グレアム・グリーンさん

彼は「沈黙」をして20世紀で最も重要なキリスト教文学とまで評価しています。

 

彼はイギリス国教会からローマ・カトリック教会に改宗した転向者。

同時に共産党にも入党した共産主義者でもありました。

 

「信念をもって共産主義を信奉する者と

 信念をもってキリスト教を信奉する者には

 ある種の共通性を有する」

 

至言であると思います。