読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

『1984年のUWF』(柳澤健)はサイテーの本!・・・なのか!? ~斎藤文彦さんが酷評する理由とは~


こういう場外乱闘的なバトルって・・・

大好きっ!

 (〃艸〃)ムフッ

 

以下は、一般公開されているインタビュー記事からの抜粋した引用部分です。

 

あの本はノンフィクションではなく柳澤健さんのフィクションです。

それを歴史の書だとか事実の記録だと誤解している人たちは目が曇っていますよ。

 

この本はプロレスの捉え方が根本的に間違ってるんです。

この本を読むとわかるのは、柳澤さんという方は、プロレスというジャンルについて何かを書くための基本的なベースが一切ないことなんです。

単純な事実の誤認を含めて間違いの上に間違いが重なり合い、何重にも何重にも誤りがあって収拾がつかなくなって、間違いの雪だるまみたいな本になっています。

 

プロレスファンがこの本を読んでも、学べることは何一つないんですよ。

まず、ビギナーからマニアまでに共通した弱点として「ノンフィクション作家」を名乗る人や、プロレスマスコミではないところの媒体を、自分たちより上みたいな感じに崇めてしまいがちなんですね。

この本に書いてあることがいかにデタラメであっても、自分より偉い誰かが書いていて、きっと真実なんだと誤解してしまう。

あらためて言いますが、この本はノンフィクションですらないんです。

 

堀辺師範でも誰でも、関係者の発言をカギカッコ付にして書くことで、腹話術のように自分の仮説を主張しています。

そのうえで関係者の心情を柳澤さんが勝手に語ってるんですよね。

だからこの本はノンフィクションではなくて、柳澤さんの書いたフィクションなんです。

 

根拠も出典も記されていないし、最初から「であろう」という推測、偏見しかない。

何度も言いますけど、この人は固定観念、先入観、ステレオタイプ、ありとあらゆるプロレスへの偏見から書いてるんです。

 

これは社会学の話なんですけど、スポーツの原型ができたのは18世紀から19世紀にかけての近代化の時代。

イギリスの一地方で特殊なゲーム形式を伴う身体運動文化というものが起きて、それをルールで統一したものがスポーツの原型になります。

スポーツの定義としては「競技的性格を持つゲームや運動及び、そのような娯楽の総称」なんです。

勝ち負けを争うかどうかはスポーツの定義の中のひとつでしかない。

実際、勝ち負けを争わないスポーツは多いんです。

 

競技か競技じゃないか、勝ち負けを争うかどうかは、いくつかあるスポーツの定義の中のひとつでしかないんです。

プロレスはもちろんスポーツです。

このスポーツ文化論の概念をわかっていれば、プロレスへの理解も深まると思うんですけど、その土台が間違えたまま柳澤さんは競技スポーツだけを論じてしまってるからおかしことになっていくんです。

 

柳澤さんはプロレスを論じるスタート地点にすら立っていないんです。

プロレスはエンターテイメントと言いながら、エンターテイメントであるべきプロレスはないがしろにしている。

結局、プロレスを「競技スポーツ」のふりをした「お芝居」だとしか思ってない。

プロレスラーは脚本どおりに演じているにすぎないと思い込んでいるんです。

 

さぁ~て。。。

 

すでに前田日明さんからも強い批判を浴びている、この作品。

著者である柳澤さんは、斎藤さんからの批判に対抗するのか、それとも黙殺するのか。

 

どちらにしても、この状況自体が「プロレス」と呼べるのかもしれませんね。

( ´∀` )