xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

旧約聖書「イザヤ書」 : あの俗物の権化「ターザン山本!」さんをも虜にする「トンデモ本」の元祖 ~旧約聖書・新約聖書を読まないのは、人生の半分を捨てるのと同じ~

えっと。。。

 

旧約聖書」と「新約聖書」をこよなく愛するアザゼルです。

 

初心者殺しの悪名高き「レビ記」、実はほとんど読まれていない「民数記」や「申命記」を含め全編を読破し、何度も読み直しては新たな発見に笑っているアザゼルです。

(何故笑うのかは後述のとおり)

 

悪魔なのに聖書好き?

イイじゃん(笑)

なんとなく・・・淫乱な聖女みたいでしょ(←ドコが?)

 

さてさて。。。

 

おカネのためならプライドも平然と捨てる俗物の権化にして、ギャンブル中毒により消費者金融からの借財が嵩み、自らのデタラメさから(事実婚を含む)結婚生活を3度も破綻させた、元週刊プロレス編集長「ターザン山本!」さん。

 

最も「神」から縁遠い部類の人間ではないかと思われた彼が、あろうことか「旧約聖書」に手を出したんだとか

その中でも「イザヤ書」に感銘を受けたんですって。

 

しかも。。。

 

最近の愛読書なんて、

 フョードル・ドストエフスキーさんの「悪霊」

  それと

 埴谷雄高さんの「死霊」

 (※「しりょう」と読む方がいらっしゃいますが、正しくは「しれい」です。)

 

どうしたんだろう・・・

ドレもコレも、真夏のアイガー北壁(しかも直登ルート)単独登頂レベルの「超難度」

 

「プロレス界の半面教師」とさえ揶揄されたヒトなのに・・・

70歳となり、死出の旅路のお支度でも始めちゃったのでしょうか?

 

ご自身は、

「俺は文学青年だから」

と宣わっておられましたが(呆)

 70歳になって糖尿病でインシュリンを自分で注射しなきゃ死んじゃうヒトが「青年」だったら(以下2,000字ほど自粛)

 

 

まぁ・・・それはともかく。。。

 

 

旧約聖書イザヤ書

 

端的に申し上げれば、トンデモ本の元祖。

三大預言書と称される「エレミア書」、「エゼキエル書」とともに紹介されることが多いんです。

 

ドコが「トンデモ本」なのか?

ハッキリ申し上げれば、

何を言いいたいのか

サッパリ分かんない

んです。

 

話は抽象的だし、脈絡もテキトーだし、「預言書」だけに理由らしい理由なんてマトモに書いていないのに、やたらと長いの。

キリスト者になるための試練として、精神的苦痛を与えるには丁度イイんじゃないかしら?

 

「預言」に対して、人間が「何故か?」と問うことは許されません。

  それは神の言葉である「預言」 を侮辱する行為であり、神を冒涜する行為以外の

  何ものでもないからなんです。

 

 「聖書」ではよくアルことなのですが、過去に作り出された数多くの与太話を脈絡も無くテキトーにくっつけたりするんです。

だから、前後関係とかもムチャクチャで、

聖書が本当に「神の言葉」により書かれたのなら

その神はマジで精神を病んでいるとしか思えない

 

しかし・・・だからこそ多様な解釈がいくらでも可能で、人々から興味を失われることもなく、何千年もの間、読み継がれてきたともいえますよね。

ついでに申し上げれば、トンデモ本の要素を多分に含んだ聖書の「解釈権」を握れたからこそ、教会は権威を独占できたのでしょう。

 

善意に解釈すれば・・・

それこそが神の思惑だったのかも。

まさに・・・

「計画どおりぃぃぃいいいっ!」

 

で。。。

 

イザヤ書」の主人公であるはずの預言者「イザヤ」さん。

原理主義っぽく読めば、独りの預言者による物語であるはず。

 

ところが、この預言書が語っている時代というのが・・・

 

アッシリアによる圧迫

 アッシリア王国(帝国)シャルマネセル5世によるイスラエル王国の征服

 (ただし、サマリア市の陥落はサルゴン2世による(紀元前722年))

 ユダ王国への圧迫(アッシリアへの従属化)

 

②王国の崩壊と捕囚

 新バビロニア王国ネブカドネザル2世によるユダ王国の征服

 バビロン捕囚

 (第一回バビロン捕囚:紀元前597年/第二回バビロン捕囚:紀元前587年)

 

 聖書の中で、ネブカドネザル2世は発狂して死んだとされています。

  当然のことながら考古学的な裏付けは何一つなく、如何にも聖書らしい

  被征服民族の「恨みつらみ」による捏造の可能性があります。

 

③解放と神殿の再建

 ペルシア王国(帝国)キュロス2世による解放

 (エルサレムへの帰還とエルサレム神殿の再建を許可する布告:紀元前537年)

 エルサレム神殿の再建(紀元前518年ごろ)

 

お分かりのとおり、2世紀以上にもわたる預言を一人の人間が行っていることになります。

預言者としてアハズ王(ユダの国主)に助言を行える地位に就くには、それ相応の年齢に達していたでしょうし、そもそも最初に登場するのはイスラエル王国がアッシリアに征服されるずっと前から。

 

ってことは・・・イザヤは少なくとも300年ぐらい存命したこととなる・・・

 

あるわけないから、そんなコト

 

おっと、この程度のコトで驚いていてはいけませんぞ。

聖書なんて、こんなのバッカリですから

 (;^_^A

 

(チト補足)

現在、日本の書店で入手できる聖書には様々なバーションが存在します。

翻訳によって文章そのものが異なっている箇所も少なくありませんので、何を底本とするのかによって解釈に差異が生じ易いことは念頭に置くべきだと思います。

 

 

で、イザヤさんが何を言ったかというと。。。

 

 

(1)アッシリアによる圧迫について

 

神(YHVH)は、アッシリアを滅ぼし、ユダ王国を救う。

だから、どこの国にも頼らず、自国のみの力にて国難に対処せよ。

 

残念!

王は国難(イスラエル王国等からの攻撃)を排除するため、あっさりアッシリアに頼ちゃっいました。

 

ただ、「インマヌエル預言」の件には留意が必要でござる。

詳しいコトは省きますが、この件が超絶無理くり解釈により、やがて新約聖書のマリアの処女懐胎の話に発展するんですぞ。

 

何言ってんのか、分かんないでしょ。

そうなんです。

ちっとやそっとの勉強じゃあ、聖書という「厳冬期のK2(しかも北側ルート)」は攻略できないのでございます。

 

8,000m級の山は人類によりすべて踏破されましたが、冬季のK2およびナンガ・パルバットの登頂に成功した者は未だおりません。また、K2の北側ルート(中国側から登頂を挑むルート)は超難関中の超難関とされ、プロの登山家でも厳冬期に挑むのは自殺と同じです。

 

(2)王国の崩壊と捕囚について

 

イザヤさんの預言・・・

細かなところで外しているんですが、とにかく凄いのが

わざわざ神様がご降臨されたうえに

イザヤさんの預言が何故外れたのか

神自身がしきりに弁明しちゃってる

ところ。

 

預言は「神の言葉」を人間の口を通して語るものなのですから、神が

「間違えちゃった・・・(∀`*ゞ テヘッ」

とやるのは当然だなんて思ってはイケませんぞ。

だって、全知全能の唯一神 のはずなんですから(呆)

 

いっつもそうなんですが、あらかじめ編集段階で矛盾点を潰しておかないから、こういう意味不明なことになるんです。

怠慢し過ぎですね、聖書の当時の編集者

  ( ´艸`)

 

ただ、「僕の詩」(しもべのうた)には注目すべき。

この詩が、やがて「イエスの磔刑」の物語へと昇華されてとされているからなんです。

 

すべての人の罪を一身に背負い

その身代わりとして処刑される

 

イエスに「神の子」という正当性を付与するために極めて重要なこのアイデアは、「イザヤ書」に起源があるんです。

 

(3)解放と神殿の再建について

 

この部分がマジで凄くて、ハッキリ言って

イザヤさん自身、自分で何言ってんのか

全然分かっていないんじゃないかしら?

 

編集がデタラメだから、まったくといってイイほどまとまりが無いんです。

 

っていうかですねぇ~

 

イザヤさんは、解放者であるペルシア王国(帝国)のキュロス2世のことを

 メシア

であると絶賛しているのですが、

異教徒の「メシア」の登場を

無邪気に喜ぶ預言者って何?

 

喜んじゃダメでしょう、異教徒ですよ、異教徒。

異教徒が「メシア」になれるのなら、唯一神を奉じるアブラハムの宗教なんていらないじゃん。

 

さらに。。。

 

ココで出てくる神殿の再建なんですが・・・

最重要、というか、コレが無ければ至聖所たり得ないはずの

「契約の箱」(聖櫃:アーク)が

とっくの昔に失われていたんです

 

もちろん。。。

 

その中に収められていたとされる、出エジプト記などで登場する

①  神により刻まれし「十戒」が記された石板

②(エジプトに数々の災厄をもたらし、映画でも有名な海を割るシーンでも使われた)アーロンの杖

③(飢えたイスラエル人のために神が天から降らせたという食料)マナを収めた金の壺

もすべて永遠に散逸。

 

寺院は建てたけれど、その中に収める本尊が無いのでは、そんなモノに魂が宿ると考える方が無理でしょう。

 

とにかく。。。

 

こんな「イザヤ書」を気軽に「サイコーだよなぁぁぁあああ!」と言い放っちゃう

ターザン山本!」さんは

 天才かアホのどちらか

であることについて、疑いの余地はございますまい。