xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

「シンクロニシティ」(デヴィッド・ピート)を読む ~ 因果律という「必然」では説明できない、有意性を持つ「偶然」こそが世界の在り様を規定する~

人工知能の研究において「意識」の問題をブレイクスルーしない限り、人工知能はプログラムの範疇を超えることは不可能とされています。

「意識」を持たざる存在が「自我」に目覚めることはあり得ないから。

 

仮に。。。(極めて乱暴ではあるが)

 

「意識」を『複雑な電気化学反応の付随現象に過ぎない』と定義するのなら、「生命」は『ランダムな分子プロセスの産物でしかない』ということがいえます。

そして、「自我」を持つ「生命体」(つまり、我々自身)が存在する、この「世界」は『偶然の産物でしかない』という可能性を排除することができないことにもなっちゃう。

 

シリアリティを注意深く観察すると、そこで見られる「連続した出来事」は、よく知られた因果関係や物理的なチカラによってだけではなく、むしろ非因果的連続の影響力によって起きていと思わざるを得ない事象が少なからず生じていることが分かります。

言い換えれば、我々が未だに全容どころか、その一端さえも明らかに出来ていない「自然」には、反証可能性を重んじる科学の知識では説明不可能な「隠された調和」が存在するのかもしれませんね。

 

一連の事象であるはずのものが、何故、いくつもの異なる「相」を見せるのでしょう?

特異点」(注:必ずしも「点」であるとは限りません)を超えると「相移転」が発生するのは何故なのか?

(「相移転」が生じる点こそ「特異点」というべきなのでしょうが・・・)

 

因果律に支配されない(ようにみえる)一連の振る舞いが、ただの偶然によって、同じように発生する・・・というのは説明困難です。

我々が「不可知な領域」で何らかの相関関係が成立していると考えた方が、むしろスッキリと理解できますよね。

 

『自然の法則は宇宙を支配している。

 それと同時に、一回ごとの現象の揺らぎの中に隠されてもいる。』

 

事象をそれ単独で理解するのではなく、「一連の動き」の中で理解しなければ、何も見えていないのと同じことになるってこと。

「自然」の様々な運動を「全体」として把握できない限り、完全な理解は得られない。

 

例えば、デジタル写真を例にとると、個々のドットの状況を丹念に調べていっても、それが何であるのかを知ることはできません。

もっともっと巨視的なレベルで全体を眺めなければ(把握できなければ)

 「あぁ、私の顔ね」とか「山頂に雪が積もった富士山かぁ」

というようなことは、結局分からず仕舞いということになりかねません。

情報理論っぽく言えば、どんなに小さな破片のような情報にも、全体の情報が含まれている・・・って感じかな。

 

敢えて飛躍した考え方を容認するのなら。。。

 

「意識」も「思考」も「科学」も、そして「藝術」さえも、たった一つの「世界の母胎」へと還元せしめることができるのではないかしら?

そして、単なる「偶然」ではない、(現在の我々には知覚できない)「意味」を持った「偶然」に支配された「世界」があるというのなら・・・

私たちの世界観は、コペルニクス的転換を余儀なくされる・・・

 

「意識」が何者であるのか、誰もその答えを手中にはしてはいないものの、(あくまで直感でしかないが)すべての「意識」は世界の母胎と眼に見えぬ「へその緒」でしっかりと結びつけられているのかもしれません。

ユングが唱えたように「夢」が、通常は自覚することが困難な次元へと深く深く沈降していくために有効な手段なのかどうかは判然としませんが (;^_^A

 

それに。。。

 

現代の哲学は、物理学はもとより、心理学や脳神経系の医学などの研究成果をドンドン取り込んでおり、新たな領域へと開拓を進めています。

一方の物理学は、意図的に人間が持つ様々な欲望や意味の探求に注意を払うことを避けてきました。

 

「心」と「物質」は、同じ「全体」がみせる異なる局面(あるいは相)として取り扱わないと、シンクロニシティ、つまり、因果関係が無いにもかかわらず、同様の「意味」を有するかのように結合している事象が場面を超えて同時に生じている、ということを理解することはできない・・・のなら、物理学が現在は「不可知」であるはず領域へと開拓先を広げ、新たな地平を切り開くことがあり得るのかもしれません。