xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

温故知新(その24) 中島敦「文字禍」を読む ~文字の本質とゲシュタルト崩壊~

著作権切れのため、青空文庫にも収録されています。

中島敦 「文字禍」

 

【引用開始】

その中に、おかしな事が起った。

一つの文字を長く見詰めている中に、いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。

単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とを有つことが出来るのか、どうしても解(わか)らなくなって来る。

 

単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有たせるものは、何か? 

ここまで思い到った時、老博士は躊躇なく、文字の霊の存在を認めた。
魂によって統べられない手・脚・頭・爪・腹等が、人間ではないように、一つの霊がこれを統べるのでなくて、どうして単なる線の集合が、音と意味とを有つことが出来ようか。

 

(中略)

 

獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。

文字の無かった昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歓びも智慧もみんな直接に人間の中にはいって来た。
今は、文字の薄被(ヴェイル)をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。

 

(中略)

 

青年等のごとく、何事にも辻褄を合せたがることの中には、何かしらおかしな所がある。
全身垢まみれの男が、一ヶ所だけ、例えば足の爪先だけ、無闇に美しく飾っているような、そういうおかしな所が。

彼等は、神秘の雲の中における人間の地位をわきまえぬのじゃ。
老博士は浅薄な合理主義を一種の病と考えた。
そして、その病をはやらせたものは、疑もなく、文字の精霊である。

 

(中略)

 

賢明な老博士が賢明な沈黙を守っているのを見て、若い歴史家は、次のような形に問を変えた。

 

歴史とは、昔、在った事柄をいうのであろうか? 
それとも、粘土板の文字をいうのであろうか?

 

獅子狩と、獅子狩の浮彫とを混同しているような所がこの問の中にある。
博士はそれを感じたが、はっきり口で言えないので、次のように答えた。

歴史とは、昔在った事柄で、かつ粘土板に誌されたものである。
この二つは同じことではないか。

 

書洩らしは? 

 

と歴史家が聞く。

 

書洩らし?

 

冗談ではない、書かれなかった事は、無かった事じゃ。
芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。
歴史とはな、この粘土板のことじゃ。

 

(中略)

 

文字の精共が、一度ある事柄を捉えて、これを己の姿で現すとなると、その事柄はもはや、不滅の生命を得るのじゃ。
反対に、文字の精の力ある手に触れなかったものは、いかなるものも、その存在を失わねばならぬ。

 

(中略)

 

実際、もう大分前から、文字の霊がある恐しい病を老博士の上に齎していたのである。
それは彼が文字の霊の存在を確かめるために、一つの字を幾日もじっと睨み暮した時以来のことである。

 

その時、今まで一定の意味と音とを有っていたはずの字が、忽然と分解して、単なる直線どもの集りになってしまったことは前に言った通りだが、それ以来、それと同じような現象が、文字以外のあらゆるものについても起るようになった。

彼が一軒の家をじっと見ている中に、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦と漆喰との意味もない集合に化けてしまう。
これがどうして人間の住む所でなければならぬか、判らなくなる。

 

人間の身体を見ても、その通り。
みんな意味の無い奇怪な形をした部分部分に分析されてしまう。
どうして、こんな恰好をしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。

 

眼に見えるものばかりではない。人間の日常の営み、すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。
もはや、人間生活のすべての根柢が疑わしいものに見える。

(以下略)

【引用終了】

 


浅学にして、山月記などを除く中島敦の作品を味わう機会を自ら放棄してきたんです。
この短編小説「文字禍」を読んで、唇かむ思いでしたぞ。

 

 

もっともっと早く出会いたかった・・・
人生の一部を無駄にしたんではないかとすら・・・

 

 


しかも。。。

 

 

 

個人的趣味からシュメールから新バビロニアに至る歴史を調べていたので、この作品の時代背景であるアッシリア、特にアッシリア最後の征服王ともいうべきアシュル・バニ・アパルという王名が出てきたのにはシビれました。

 

(この時代に興味を持ったのは、旧約聖書を少しでも理解したかったからなんです。ついでながら、ノアの洪水伝説の原型(の一つ)といわれるシュメールもしくはアッカド神話がサラッと出てくるあたり、中島敦が作品を発表した時代、この程度の内容は小説を読む者にとっては知っていて当然だったのかしら………(°_°))

 

 

また、ゲシュタルト崩壊について、文字という分かり易い題材から説明するというのは面白かった。

ほんの一時期だけど、文字が線の集合体にしか見えなくなり、何故をもって文字(音や意味)たらしめるのか、全く理解できなくなったことがあったから。

 

文字の認識ができなくなりそうになったとき、ほとんど直感的に

「そのような疑問を持つことは、極めて危険だ・・・」

と判断して、疑問そのものを心の底の深淵に葬り去ったんですよね。

「文字は、文字であるが故に、文字である。」

そんなトートロジーを一切の批判を許すことなく真であるとみなしました。

 

 


ところで。。。

 

 


この作品、小説として味わった場合、大したことはないんです。
むしろ駄作に近いかもしれません。

 

 

それでもなお、この作品の放つ輝きはいささかも衰えることはございますまい。
小説としての完成度ではなく、小説として取り上げた題材の興味深さという点において。