xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

温故知新(その21) 仏教思想にいう“空”の考え方って、面白い ~何も無いからこそ、そこからすべてが生じてくる・・・~

もう既にいくつもの指摘がなされていることなので恐縮なのですが・・・
仏教思想、特に般若心経に説かれている内容と、最新の宇宙論の考え方に相似した箇所ってありますよね。

 

仏教思想について、ほとんど語るべき言葉を持ちませんが、その中核を成す思想、あるいは考え方の一つに"空"というものがあるのだとか。
ちなみに、一般的に"くう"と読むのですが、これを“そら”って呼んじゃっても、実は強ち間違いとは言い切れないというのも面白い。


さてさて。。。


観自在菩薩と舎利子の対話に出てくる“五蘊=空”の考え方。
菩薩は「色即是空 空即是色」と説く。

 

※ココで書いた菩薩と舎利子の対話は、アザゼルの解釈によるもの。
 根本的に誤っている可能性も排除できないので、悪しからず。

 

この世で形を成している存在の本質、否、存在そのものが"空"である。
更に、"空"であるがゆえに、そこからすべてが生じてくるのだ。

(舎利子がその説明に合点がゆかぬと首を傾げると、菩薩は「色不異空 空不異色」と話を続ける。)

 

すべての存在は、永遠絶対的なものではない。
相互関係の中で変化消滅するものである。

 

存在が固定的なものでなく流動的なものであるからこそ、一つの存在が消滅したとき、新たな存在が生じることにつながる。
しかして、新たに生じてくるものは、無数ともいえるほどの因果関係(論理関係)によって、消滅した存在とは全く異なるものが生じる可能性があるのだ。

 

長い長い時間軸の中で考えれば、貴方という存在も、月や太陽のような存在も、あたかも陽炎のような束の間の存在でしかない。
しかし、その存在が消えたとき、新たな存在を生じさせる原因(の一つ)と成り得る。

 

言い換えれば、貴方という存在は、奇跡的な確率で生じた"有難い"存在なのだ。
貴方という存在は、過去にいくつもの、何十、何百、いやいや、何百万、何千万もの存在が生まれ、消滅してきた結果、生じた。

 

その過程で、貴方という存在をこの世に生じさせた無数の過去の存在が一つでも欠けていたならば、どうだろう。
そうなれば貴方という存在が生じることはあり得なかったのだから。


なるほど。。。


運命論あるいは宿命論を語っているように思えたけれども、これは厳然たる確率論の問題。
そして、無数の可能性が同時に存在する論理空間の中から、たった一つの選択が行われた結果として存在する"私"という存在。


さらに。。。


"無"から"有"が生じるわけがない・・・という基本的な理解、というより常識が、宇宙論の科学的進歩の結果、根本的にひっくり返えされる可能性すらあるという現実。
無=空は、有=色を生じさせる・・・それは科学的根拠を持った事実なのかもしれないのですから。

(ただし、ココでいう“空”とは、量子力学的な"無"であることに留意すべきかもしれません。)


で。。。菩薩の話は続きます。


この宇宙は、無数の運動体(例:一粒の水滴)の集合であり、宇宙それ自体が一つの運動体(例:大河)である。
舎利子よ、貴方自身がこの宇宙を宇宙たらしめるために必要不可欠な要素(ワンピース)であると自覚せよ。

 

宇宙という全体集合は、貴方というたった一つの要素が欠けただけで、もう宇宙とは呼べない存在にならざるを得ない。
つまり、宇宙は、貴方というホンの小さな要素に依存しているともいえるのだ。

 

でもね。。。


ここまではイイ。
少なくとも、ここまでは。

その後に続く、「このようにこの世に生を受けた意味があることを自覚せよ」という箇所には同意し難い。
何事にも意味を求めることは、人間の悪い習性といえるでしょう。

 

なぜ、そんなことがいえるのか?

 

東日本大震災でなくなった数万人にも及ぶ方々は、自己の業により死んだのしょうか?

 

非業の死を遂げた人間は悪人だったから?
因果応報、前世からの悪行が祟ったから?

 

それこそオカルト以前のお笑い種。

かような宗教が何故信ずるに値しないのか、子供でも分かろうというものでございましょう。

 

『生まれたことに意味がある』あるいは『生きていく目標がある』云々・・・
そんなことを求めること自体、傲慢さの表れ以外なにものでもなく、自己の無知蒙昧さを曝け出すものでしかない・・・と思います。


もっといえば。。。


宇宙が"私"という存在を含む全体集合であるとして、仮に"私"が自発的に死を選択(自殺)して消滅したとしても、宇宙は全体集合であり続けるだろう。
なぜなら、宇宙は、現在に至るまでの無数とも呼べる偶然による選択の結果の集積なのだから。

 

"私"の消滅すらも一つの選択に過ぎしない。
宇宙を宇宙たらしめるものが無数の選択した結果(集積)であるのならば、自殺しようが、殺されようが、選択の一つである以上、宇宙は何ら欠けたところのない宇宙のまま。

 

<私>という存在が生じる前に、宇宙が存在していたように、<私>という存在が消滅しても、宇宙は存在し続ける。
これは直感というより、証明すら不要な自明の理。

 

偶然にこの世に生を受けた"アザゼル"は、ただ己が信じるところに従い、生きて行く。
誰かに命じられるのではなく、自分で考え、自分の道を開拓しつつ、歩いて行く。

 

この道が正しいものかどうかなど分からない。
だからこそ、考えながら歩くのでしょう。


ちなみに。。。


ある宗教によれば、それこそが地獄への道だと説く。
自己中心の考えは、ときに社会秩序を崩壊せしめ、国家を混乱に陥れるおそれすらあるから。

 

「だから、何?」

 

他人が作り出した常識に埋没し、自分で考え行動することを放棄するが如き所業こそ、忌むべき悪行。
宿命などという自分が進むべき道など下らぬ幻想であり、そんなものは有りはしない。

 

ニーチェの言葉のような紋切り型の超人思想など唾棄すべし。
断定的表現にこそ、思考停止の誘惑が潜んでいると警戒すべし。