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xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

温故知新(その20) 十字架に架けられたイエスは何故、最後に"神よ、神よ、何故、私をお見捨てになられたのですか"と絶叫したのだろう・・・

ホントは、ナグ・ハマディ文書に含まれている、グノーシス主義色の濃い"トマスの福音書"について書こうと思っていたのです。
でも、その過程で、結局この問題にぶつかってしまったという次第。

 

ちなみに“イエスは本当に十字架刑に処せられたのか?”という問いを立てることも可能でしょう。
史実として、その明確な答えは未だ出ていないようですから。

 

イエスが十字架に処せられたと主張しているのは新約聖書(しかも教会が正典として認めたものだけが納められたものが現在の聖書の姿)だけ。
当時のエルサレムの支配者であったローマ側の文書には何の記録も残っていないのですから。


もっとも。。。


そんなことを言ってしまうと、イエスという生身の人間の存在証明自体、聖書以外にその拠り所が無いわけです。
まあ、この問題は、いずれまた・・・


さてさて。。。


表題にある問題は、何度か取り上げたことがあるんです。
だって、解釈によってはキリスト教の教義を根幹から揺るがしかねない問題だから。

 

もしイエスという、ユダヤ教イエス派ともいうべき原始キリスト教の創始者が神を恨んで死んだのなら、これはもう宗教として成立可能性はほとんどありません。
神の力で復活するはずもないもの。


では、あの死の直前にイエスが絶叫した言葉の意味とは?


日本では故・遠藤周作氏の解釈が有名らしい。
遠藤氏といえば、日本でも著名なキリスト者ですものね。

 

遠藤氏の指摘のとおり、”エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ”という言葉を発した場面は、正統派教会が認める福音書の中でも、マルコとマタイにしか出てきません。
歴史的に後世になって成立したとされるルカとヨハネの各福音書では、全く異なる言葉を発したことにされてしまっています。

 

当時のキリスト教父も、この言葉の解釈には、ほとほと困ってしまったのでしょう。
解釈に困った挙句、分からない言葉は無かったことにしてしまえ、と書き換えたんだろうなぁ~


でもね。。。


遠藤氏の解釈にも、個人的には承服できないのです。
無理やりな解釈だとしか思えないから。

 

もちろん、これはボクのキリスト教への理解の浅さであるとか、歴史的知識や解釈力の無さが災いしている可能性は否定しません。
しかしながら・・・詩編の一説だとする解釈は、”エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ”つまり、神よ、我が神よ、何故にこの私をお見捨てになられたのですか?という悲壮な絶叫の前には、余りにも脚色された解釈でしかないと思えるのです。

 

事実、マルコとマタイに続いて後世に成立したルカとヨハネ福音書では、解釈に苦しむ余り、あろうことか神の子の言葉を人為的に書き換えるという暴挙に至るのですから。
ルカとヨハネ福音書の成立にかかわった編集者・・・というより改変者たちは、キリスト教にいう地獄に落ちたのではないでしょうか。

 

確かにいずれの福音書においても、イエスはこれから起こる災厄を使徒たちに予言しているのですから、これにてコト(神の計画)は成就せり、という意味だと解釈できないわけではない。
しかし、それでも大きな違和感が残ったままであることには変わりがなく、だからこそ、ルカでは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と神の子らしい、もっともらしい言葉に改変されてしまったのでしょう。

 

また、生身のイエスが最後の祈りを捧げたゲッセマネでの一節でも「神よ、なぜ私をお見捨てになるのですか?」と神に尋ねていることから、受肉者としての苦しみであるとの解釈も可能でしょう。
ですが、それでは三位一体の神という解釈が成立する余地がなくなってしまいます。

 

おかげでユダヤ教の一派であったはずの原始キリスト教の創始者とされたイエスが叫んだ相手の「神」は、YHVHではないとか、その神とは造物主という偽りの神ではなく、真の神である至高者に対するものだとか・・・
グノーシス主義者が大喜びしちゃいそうな解釈までなされる始末。

 

ホントの意味、隠された意味とは、何なのでしょう。
それこそが、トマスの福音書にいう、隠された意味(イエスの意図あるいは計画)を知る者は"永遠の生命を得る"ことになるかもしれません。