xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

温故知新(その19) 何故、自殺する権利は認められないのでしょう・・・ ~天から「生きる自由」は与えられないのに、「死ぬ自由」は与えられるという不均衡さ~

とある古い映画の一節に、こんなやり取りがあったんです。
登場人物は、恋人未満友達以上の男女の2人。

 

女性が自殺を図るんです、将来に絶望して。
死にきれずにいたところを、男子が見つけて助ける。

 

そして、助かった女子に、助けた男子がこう言う。
「生きていれば、きっとイイことがあるから・・・」

 

・・・
・・・
・・・

 

彼のとった行動を非難するつもりはありません。
彼が彼女を死なせてあげた方が良かったのに、というつもりもありません。

 

ただ。。。

 

すっごく引っかかってしまったんです、彼の言葉に。

だって・・・

「生きていれば、きっとイイことがある」
なんて、本当なんでしょうか?

 

勘違いして欲しくはないのですが、この言葉は偽善だなどと言いたいのではありません。
余りにも無邪気過ぎるように思えたのです。

 

世間には『生きるってことは、トッテモ素晴らしいことなんだ!』風味の言葉がイヤというほど氾濫している。
と同時に、これほど無責任な言葉もそうそうあるものではない。

 

何故って?

 

だって、こんな感じの言葉を軽々しく使うヒトって、ホントは生きることの意味すら考えていないから。

生きることは素晴らしいことだとホントに信じている?

 

自分の言葉を信じるってことは、その言葉に責任を持つってこと。

責任を持てないってことは、ホントは自分ですら信じちゃいないのよ。

売れないラッパーが韻を踏むために使う語呂合わせ程度の感覚で、テキトーに言葉遊びをしているだけ。

 

 


人間って不自由ですよね。
「生きる自由」なんて、与えられていないもの。

 

間違えないでね。
ココで言いたいことは、憲法に規定されている生存権のお話ではございません。

 

「絶対に死にたくな~い!」
って叫んでみたって、抵抗したって、死ぬときは死ぬのですから。

 

老衰で眠るように死ぬだけじゃない。
病魔に侵されて、苦しむだけ苦しんで死ぬことだって決して珍しいことじゃない。

 

経済的苦境から餓死することだって、不慮の事故で亡くなることだってある。
隣国で発生した海難事故では、10代の若者たちが自分の意に反して100名以上がその生命を絶たれた。

 

それに対して、ほとんどの人間には「死ぬ自由」が与えられています。
もっと端的に、自殺する権利って言った方がイイかもしれません。

 

「生きる自由」は無いけれど、「死ぬ自由」はある。
なんと均衡のとれない、人間に与えられた自由なのでしょう。


そして。。。


日本だけでなく、多くの国では、尊厳死すら認めてはもらえません。
その理由、あるいは、認められないとする法的(政治的)・社会的・文化的・歴史的背景はさまざまですが、自死を選択することは、背徳行為とすら受け止められています。

 

「貴方が死んだら、皆が悲しむから・・・」

 

そんなのウソ。

普通に死んだって、50年経っても覚えていてもらえるヒトなんて、どれだけいるの?

 

故・ガルシア=マルケスの「百年の孤独」ではないけれど、ホンの一部の例外を除いて、ほとんどの人間は、死後100年も経てば、墓石に彫り込まれた(あるいは一片の用紙に書き込まれた)名前以外、何の痕跡(記録に)も残さずにこの世から消える。

周囲の悲しみだって、現実にはホンの一瞬。

 

親を絶望の淵に追いやるのか!

って怒られそうだけど、だったら、私が生きる理由は他人のため?

血を分けた、親であろうと、兄弟であろうと、子や孫であろうと、突き詰めれば、他人の始まり。


彼ら/彼女らは"ワタシ"の分身でもなければ、"ワタシ"は彼ら/彼女らの分身でもない。

"ワタシ"という存在を、存在させ続けるのか、あるいは、消し去るのか。

 

著しく不均衡であるものの、その与えられた“自由”を行使する権利すら、束縛されなければならないのでしょうか。


・・・
・・・
・・・


なぁ~んてことをツラツラと考えながら、その映画を最後まで観ていたのでございます。
本当は、病魔に侵された彼女を必死になって支え続ける献身的で純朴な彼の姿に、お涙頂戴の映画のはずなのに。


そんなこんなで、この映画を観た感想を一言で申し上げれば・・・

ウソ臭ぁ~い