xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

温故知新(その13) 伊勢神宮(皇大神宮)の正宮は、男神と巫女の男女和合の有様を描くもの? ~原始宗教の息吹を色濃く残す神道の基本は”神様ゴッコ”~

今や日本最高のパワースポットとも称される「伊勢神宮
行けば元気がもらえる、というのであれば、観光気分で行くのも悪くはございますまい。

 

で、お話は内宮・外宮の正宮にある「心御柱」(しんのみはしら)のこと。

 

心御柱は、社殿の中央にある柱を指すが、建築構造上、意味をなさない柱であり、本来は神の依代であったと考えられる。神明造では社殿本体と完全に分離している。
神道では心御柱についてアレコレ語ることはタブーなんだとか。

 

ご存じのとおり、神道は何かと秘密主義が多い。
神主も本当のところはよく分かんないだけど、権威付けのためもあって、「知っているけれど、言わない」的な取り繕いでしかないって感じがしないでもない。

 

ちなみに、日本の仏教もその影響を強く受けており、”秘仏”がやたらと多いのも、その表れなんですって。
まあ・・・絶対の秘仏といったって、江戸時代の幕府による検分記録によると、罹災(おそらく火災による被害)しておりバラバラの状態で保存されていたっていう、善光寺阿弥陀三尊像もあるみたいだけど。


さてさて。。。


心御柱」は、古代の蛇神信仰に起源があるという説があります。
箸墓古墳で有名な、第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)が主人公の三輪山伝説でも、大物主神の正体が蛇であるとされていますが、これなどは蛇神信仰の証左の一つといえるかもしれません。

 

蛇神信仰ということは、すなわち、太陽信仰そのもの。
また、蛇神の依代は、インドのシヴァ派のリンガと同様、生命の源としての男根を裏の意味に持つ。

 

正宮に祭られるのは、天照大神(女神)。
言わずもがなの太陽を神格化した神。

 

ちなみに、我が国における太陽信仰は、紀元前5,000年ごろに起きた鬼界カルデラの噴火に起因するとも。
この噴火による火山灰は、九州全域はもとより、北は朝鮮半島、東は東北地方にまで達していたことが地質調査の結果、判明しています。

 

大量の火山灰によって、太陽光が地上に届かず、昼なお暗い(というか闇のままの)状況になった。
そのことが、大和朝廷が成立する遥か昔の古代人たちに強烈な恐怖の記憶となって、最終的に天岩戸神話へと変容し、今に語り継がれているというのが、その骨子。

 

更に申せば、天孫降臨神話の地、宮崎県高千穂からは大噴火した鬼界カルデラが(天気が良ければ)見える点には留意しておくべきかもしれません。
例え神話であろうと、その元になった情報(記憶)もないまま、何も脈絡もなく、天孫降臨の地が定められたわけではないと考えることもできるのですから。


で。。。


古代人にとって、太陽が隠れること(=太陽の死)は、世界の終わりを意味する。
これは何としても防がねばならない喫緊の課題。

 

太陽が衰弱死する前に、これを蘇生(あるいは再生もしくは復活)せしめることができる者が必要。
これが日の巫女たる、大日霊(おおひるめ)の起源だというのでござる。
(ただし、言語的にオオヒルメを巫女と解釈することは無理があるとの強い批判もありますが・・・)

 

太陽を象徴する動物が、脱皮を繰り返し、あたかも再生するかの如き”蛇”。
太陽神は、生きとし生ける者すべての生命の源たる男神であって、地上にあっては蛇の姿をした神。

 

衰えちゃったオトコを元気にするには?
そりゃあ、若いオンナでしょう、ってことで古代人が準備したのは巫女ってわけ。

 

先に出した三輪山伝説でも、皇族の女子を神に差し出すっていうところがポイント。
国(クニ)の安寧秩序を維持するために、大王(オオキミ)の娘を神様の慰み者として差し出す妻にするってことですよね。


つまり。。。


伊勢神宮の正宮(正殿)は、おチンチンを丸出しにした男(太陽神)が下になって、大股を開いたアラレもない格好の女(日の巫女)が上になって交合するという、男女和合の場面を象徴するものという解釈も成立するんですよね。
例えば、伊勢神宮では、心御柱の直上に天照大神依代たる八咫鏡(やたのかがみ)がお祀りされている・・・・・・何とも配慮が行き届いていらっしゃること。

 

現在は否定されている国家神道の考え方を敢えて是とするならば、日本におけるセックスの在り様は、女性が上になる形こそ正常と申せましょう。
これこそが神が自ら体現する男女和合のあるべき姿なのかもしれません。

 

フザケンナ!

 

なぁ~んて仰る方は、古事記をチャンと読んでおられませんな。

天照大神が天岩戸(あまのいわと)にお隠れあそばされたとき、天宇受賣命(あめのうずめ)が岩戸の前で、神憑り状態になって、胸をさらけ出し、女性器まで見える卑猥な格好で狂ったように踊ったところ、高天原八百万の神が一斉に爆笑した、とあります。

 

これは、古代では極ありふれた巫女による神事の様子であったろうと容易に推察することができます。
(余談ながら、日本書紀では、この部分はバッサリと削除されちゃっています。)

古代において、シャーマンたる巫女が神憑りになる状態(トランス状態)には、男神との交合によるオーガズムの快感すらも含まれていたであろうと想定するのは、さほど的外れなことではございますまい。

 

男(男神)の方も、上になって狂ったように何度も絶頂を迎える女(巫女)がいてくれるおかげで、活力増進あるいは再生を果たしたことでございましょう。

チャラけた感じに書き過ぎたわけではなく、神道の基本って、結構、こんな感じの神様ゴッコが色濃く残されているような気がしますぞ。

 

未だ神道シャーマニズムアニミズムの色濃い原始宗教の息吹が強く残っていることは、日本では古来より自然を神とし、神たる自然との合一を目指してきたことを意味するものでもあるのでしょう。

”神様ゴッコ”なぁ~んて言うと、不快感を持つ方もいらっしゃるかもしれません。
でもね、大嘗祭なんて、まさにその典型例。

 

日嗣の皇子が(目に見えるはずもない)神様と寝食を共にし、身の内に天皇霊を迎えることによって真の天皇となる儀式。
これなど、神様ゴッコと言わずして何と申せば良いのでしょう?

 

ただし、この神様ゴッコこそが天皇天皇たる所以であり、根拠そのもの。
第85代仲恭天皇のように、承久の乱によって大嘗の儀を執り行うことなく退位を余儀なくされた場合、長く天皇として認められず、”半帝”と揶揄され続けたのは、ご周知のとおり。

 

人の身でありながら、内に天皇霊をお迎えするからこそ”現人神”
天皇霊をお迎えしていない者は、その連続性・神聖性において、本来的には天皇とは呼べないはずです。
(だって、只の人間だから。)


閑話休題。。。


長々と書いてきましたが、要するに、伊勢神宮のパワーの源は、五穀豊穣・子孫繁栄を願っての男女和合の激しい情念。
なるほど・・・いろんな意味で、伊勢神宮は最強かもしれませんぞ。