xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

温故知新(その10) ”絶対的超越者”たる神は、果たして存在するのか? という根本的な疑問

神の行為は、人間の行為とは根本的に異なるため、どこぞの殺人犯が
「俺は人など殺していない。何故なら、魂は不滅だから。」
などと戯言を言っても、何の抗弁にもならないことは、あらかじめ留意・・・というか、当然に理解しておくべきでしょう。

 

この説明が分かり難ければ、

  人間は人間を罰することができるが
  人間は神を罰することはできない関係にある

といえば、人間と神の関係が、人間と人間の関係とは根本的に違うことがお分かりいただけるはず。

 

もっとも、より正確には、

 人間は、神の罰を一方的に受けるだけ(不可避の)存在でしかない
 人間は、神の恵みも、神の罰も、ただ粛々と受け入れるだけの存在でしかない

ということになるのでしょうが。

 

そんなの不合理だと思うのならば、神を否定(無神論)する他はございますまい。
あらゆる意味(すなわち、あらゆる因果関係が成立し得る論理空間)において神が超越者であることを認めない限り、神は神足り得ないのですから。


で。。。


ここで、先ほどの「魂が不滅であることを前提とすれば、旧約聖書の神の行いは、さして酷いものではない」という論拠が成立するためには、

 (条件A) 魂は、不滅であること

だけでは足りず(注:ここでは、不滅とは何か?という哲学的命題には、敢えて触れません)、

 (条件B) 神は、あらゆる意味において超越者であること

を満たす必要が生じます。

 

ここでいう”超越”とは、ニーチェが唱えたような思想上の”超越”などではなく、文字どおり、物理法則さえも自己の意志により、いとも容易に破ることのできる"絶対的超越"のことをさします。

つまり、”神”を信じることとは、物理法則を超える存在(例えば、時間すらも自在に操れる)を認めることと同義となることに注意を払うべきでしょう。

 

また、神が物理法則を司っている、あるいは、神が我々を固有の物理空間に閉じ込めている、と考えても、先ほどのとおり、神が"絶対的超越者"であることに何ら変わりはありません。
異教徒(異邦人)が、果たして唯一神教を受け入れることができるか否か、その分水嶺となるのが、かような”絶対的超越者”の存在を認めるかどうかにあるようにも思えます。

 

科学は”超越者”たる神の支配下にあるのか、それとも、”超越者”などどこにも存在しないのか・・・
この答えは、人間自身が”超越者”にならない限り、見つけることは難しそうです。