xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

温故知新(その5) ブラフマン、アートマン、同化、永遠の至福 ~「梵我一如」は、本当に至上の幸福をもたらすのだろうか?~ 

梵我一如は、古代インドに姿を表したウパニシャッド哲学の最終到達点なんだとか。
時代的には、ブッダがこの世に出でるときよりずっと前のお話。

 

・「梵」=「ブラフマン
・「我」=「アートマン

 

ブラフマン」とは、宇宙の根本原理(支配原理)という形而上学的存在、もしくは、宇宙の在り様を支配する力、あるいは、宇宙創世の原初より存在する、あらゆる生命の源だともいいます。
ブラフマン」という存在を物理的に証明することは不可能であり、邪念を払い尽くした末に到達できる、一点の曇りもない清浄さに満ち溢れた意識の中で感じる他はないのだとも。

 

ここで、この邪念(注:ブラフマンを感得するために邪魔となる一切の思念)を払うために修行を行う必要がある・・・という解釈が成り立ちます。
一切の邪念を払うためには、まずは執着するココロを絶つため、金銭・貴金属・不動産等の所有物だけでなく、これまでに獲得・相続した地位・名誉、更には親・兄弟・親戚・友人との関係すら一切放棄するところからはじめなければならず、生半可な思いだけでできるようなものではございませんよね。


さて。。。


一方の「アートマン」とは、<私>という個人の存在の根本在原理(支配原理)、あるいは、肉体という檻の中に閉じ込められているものの、<私>という存在を疑うことなく他者と区分することのできる真の実体だともいいます。

 

この真の実体たる「我」を、肉体という檻の中から解放するためには、自己の意識を形而上学的領域に至るまでに昇華せしめる必要があるのだとか。

「存在の謎」を解かなければ、真の実体、ピュアな状態の魂を肉体から解き放つことは不可能。

 

その結果、存在するものとは異なる、存在するものを存在たらしめるもの、すなわち、「存在とは何か?」を問わなければならないことに行きつきます。

 

「世間」などというものに埋没することなく<私>という個の存在を理解するだけでは足りず、存在することの意味を解き明かさなければならない・・・
この問いがメタ的議論へと陥ることは容易に想定することができ、果たして、その問いに答えなどあるのかどうか、かなり疑わしいと言わざるをえません。

 

ただ、存在とは何か?と問うためには、

 存在すること=「有」

 存在しないこと=「無」

を厳密に区分する必要があり、何が「無」であるのかを定義する必要があるはず。

 

インドにおいて、何故、無の概念が古くから成立したのかについて思いを馳せるとき、こんな議論を真剣にたたかわせていたのなら、そりゃあ、観念としての「ゼロ」へと行き着くことも無理からんことだったのかもしれません。


で。。。


このような問題を解こうとする場合、一番容易な方法は「神」を持ち出すこと。
全知全能の存在を前提とすれば、「それは神の御業である」とさえ言えば問題は解決(笑)し、小難しいことなど考えないで済んでしまいますもの。

 

というより、「神」の存在を絶対の真理であるとする前提を置くとき、かような存在論的議論は、神の存在を疑うことへと発展しかねないおそれを多分に内在させています。
むしろ、「なぜ、存在するのか」と問うことは、不敬の至りとされるはず。


アートマン」が自己の真の実体だと仮定すると、「アートマン」を認識する主体も「アートマン」自身である<私>ということとなり、これを定義するのは容易なことではございますまい。

 

何をもって「アートマン」といえるのか、前出のような説明は、実はほとんど意味の無いものだったともいえなくはない。

また、「ブラフマン」自体、そもそもの語義は「言葉」であるといいます。

 

日本の言霊信仰とは異なるものの、如何にも言葉の持つ”呪力”への畏敬の念に溢れていて、旧約聖書 創世記の始まりをも想起させてくれますよね。


さてさて。。。


霊魂の存在を認めた場合、「アートマン」は<私>を私たらしめる「霊魂」そのものといえます。
「自我」であり、「人格」であり、「霊魂」でもある存在だなんて、何だか新約聖書における神の基本解釈「三位一体」みたい・・・

 

アートマン」は、元々はウパニシャッド哲学において生命活動の基礎とされた「呼吸」をさす言葉なんだとか。
「霊魂」「身体」「自我」という概念は、存在を認識する主体である<私>という個の支配原理から派生したものに過ぎず、むしろ「本質」あるいは「本体」という意味こそ、本義なのかもしえません。

 

宇宙の根本原理たる「ブラフマン
個人の根本原理たる「アートマン

 

この二つは、その本質において同一である。
そのことを、ヨーガの力を借りて、意識を眠らせず、かつ活動もさせない「瞑想」の中において、感得せしむることこそ「梵我一如」の目標であり、終着点。

 

ココに至れば、苦悩・破滅(死)から永遠に解放され、究極の至福が得られる・・・とされています。
もう、分かったような分からないような結論。

 

 <私>を取り巻く神羅万象たる「大宇宙」 = 「梵」
 <私>の内なる実体たる「小宇宙」    = 「我」

 

梵と我が完全に融合し合一を果たしたとき、本当にすべての苦悩・破滅から永遠に解放されるのでしょうか・・・