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xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

温故知新(その3) ゆとり世代が読む「二十歳の原点」(高橋悦子) ~22歳の「私」が感じたこと~

この本、読むのは二度目である。
最初に読んだときは、下らぬ作品だと捨て置いた。

 

それから数年が経ち、何故だか、この本をあらためて手に取る気になった。
理由は自分でもよく分からない。

 

一度は下らぬと解釈はしてみたものの、何某かの違和感、自分の中で消化することのできない違和感を抱き続けていたのかもしれない。
いや、そんな違和感など、所詮は取って付けた後講釈に過ぎないというべきか。

 

ただし、最初に読んだときと今では、私自身に決定的な差異が生じている。
死について考えねばならない状況に置かれたという点において。

 

大学病院での定期検査で膵臓関係の数値に異常が見つかった。
腫瘍マーカー検査でがんの疑いありと診断され、MRI検査を受けることになった。

 

膵がんの生存確率ぐらい知っている。
仮に死亡せずとも、その後にどんな生活を強いられるのか、そんなことぐらい知っている。

 

膵がんと診断されたら・・・
自殺しようと決めた。

 

癌とは闘わないし、管だらけの体になって生き延びるという選択もしない。
だって、これまでずっと内臓疾患と闘ってきたから。

 

そうそう、小学校、中学校、高校と、体育の時間は拷問だったな。
同級生が嬉々として運動している間ずっと、その様子を「見学」しなければならないという拷問。

 

つくづく感じたよ、私はカタワモノだって。
そして思った、「同級生たちが憎い。学校という存在が憎い。」

 

・・・そうじゃない。
本当は、こんなどうしようもない自分が大嫌いだった。

 

それでも良い子を演じ続けた。
良い娘、良い生徒等々、私に与えられた役割ってやつを果たしてきたんだ。

 

その顔に被った「良い子」っていう仮面を1枚剥げば、怨念と化した憎しみと業火のごとき妬みに満ちた、まるで腐臭を放つ汚泥ようにドロドロとした「心」が露わになるのに。
そんなことになっているなんて、母だって気付いていなかったんじゃないかな。

 

でも、がんの疑いあり(正確には、そんな露骨な言い方ではなかったが)と担当医からいわれたとき、不思議なぐらい、というより拍子抜けしちゃうぐらい自然に受け入れられた。
「・・・とうとう来た・・・」って。

 

人間が死のおそれに直面したとき、泣き叫ぶものだと勝手に想像していた。
でも、そうじゃなかった。

 

風一つとしてない凪のときの海面が、まるで鏡のような穏やかな顔をみせるように、私の「心」はとても静かだった。
こんなことって、あるんだね。

 

憎しみや妬みなんて、所詮は「心」が作り出した幻影。
生涯消えることがないと思っていたモノが、音も立てずに消えていくような、そんな奇妙な感覚に襲われた。

 

 

で・・・

 

 

本当の意味で良い子になったと思う?

ざんねぇ~ん、超残念。

 

MRIの結果はシロだったし、とりあえず腫瘍マーカーの再検査の結果もまずまずの数値まで下がった。

そうかぁ、癌じゃなかったのね。

 

なぁ~にが静謐な「心」だ、馬鹿っじゃないの。

・・・それでも変わったことがある。

 

同級生や学校に対する憎しみや妬みが、本当に氷解しちゃった。

死を前にすると、一人で抱えていた憎しみや妬みなんて、何の意味もないことが分かったからなのか。

 


閑話休題。。。

 


手に取って、本のカバーの絵を見る。
あぁ、そうそう、この絵だった・・・、と思い出した。

 

赤い、枯れた花の絵がよく似合っているなぁ。
だって、レクイエムそのものなのだもの、この本は。

 

表紙を開ける。
そこには、故・高野悦子ポートレート

 

写真の具合なのか、顎が尖って、右目が斜視っぽく見えるのは残念。
他の写真を見たことがあるけれど、とても可愛い感じの子(あるいはキュートと表現すべきか)。

 

でも逆にいえば、そんな子が20歳で鉄道自殺を選択するというギャップを象徴してもいる。
・・・いけない、こんな思い付きレベルの適当な意見は、それこそ高野悦子から糾弾されるな。

 

また1枚捲ると、そこに現れるのは「二十歳の原点」のキャッチ・コピー。

『独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。』

 

上手いコピーだ。
コピーライターとして、電通博報堂にでも就職すればよかったんじゃない?

 

この本は、鉄道自殺を図った故・高野悦子が当時大学2年生だった1969年1月2日から同年6月22日までの日記をそのまま掲載したもの。
だから当然、1969年1月2日の日記から、この作品の幕が開く。

 

いきなり大上段に振りかぶった大仰なことを臆面も無く書いてある。
全共闘時代の20歳ぐらいの人って、本気でこんなことを考えていたとしたら、そりゃあ息苦しかっただろう。

 

読書すること、考えること、実践すること、論理化すること、自己批判すること。
日々是、自己実現のためのplan-do-see-check・・・大変だね。

 

社会情勢の違いが余りに大きく、現在を生きるアザゼルが彼女が生きた時代を理解することは、おそらく不可能だ。

また、今更それを理解する意義があるようにも思えない。

 

アザゼルが、というより、私たちは、彼女が生きた時代から更に積み上げられた実証成果の上に立脚している。
アザゼルが生まれたのは、中華人民共和国において文化大革命が内乱として完全なる誤りであった旨を公式に確認された後であり、社会主義諸国の盟主であったはずのソビエト社会主義共和国連邦が崩壊した後であるのだから、彼女と同じ問題意識を持ち得ようはずがないではないか。

 

論理化の問題においても、また同様である。
量子力学分野の研究の進展により、今では一般人ですら、「如何に当初の設計が完璧であっても、実体化するや否や自発的に破たん(破れ)が生じる」ことぐらい知っている。

 

ましてや、彼女の死に対する責任として、我々には未だ未熟なままの現代(彼女からみて未来)をより良い世界にする義務があるとの某教員の話を読んだときには、椅子から転げ落ちそうになった。
まったくの噴飯ものであり、この教員、一度、頸でも括った方が良いのではないか。

 

また、こんなことを書くと批判されるんだろう。
「これだよ、ゆとり世代って奴らは」ってね。

 

ゆとり世代というだけで、真剣に生きたことがないだのなんだのと世間で好き勝手なことを言われているけど、だったら言ってやりたい。


「あなた方だって、生きていることについて、

 天地神明に誓って真剣だったと言えるわけ?」

 

おそらく、ほとんどのケースは嘘だらけのはずだ。
真剣に生きることを許容できるほど、社会(あるいは組織)ってものは寛容ではあり得ないのだから。

 

「昔は、生きるってことについて、真剣に考え、悩んできたんだ」とか、
ゆとり世代っていうのは、悩んだことがないから駄目なんだ」とか。

 

そんな言葉は軽々に吐けるってこと自体が、己を美化し、自己正当化を図っているだけの浅ましさを露呈しているに過ぎないことに、いい加減、気付きなよ。

流れに乗るしか社会(そして組織)で生き残れないことぐらい、ゆとりだって知っている。

 

考えれば、悩めば、果たして人生は豊潤になるのか?

それを己という媒体をもって証明してから偉そうなことを言え!


・・・とまあ、ひとしきり吠えたところで彼女の話に戻ろうか。


この子の考え方って、自己矛盾のパラドックスに陥っているんじゃないのかな、とも感じる。
なお、それを証明してみせるだけの力が、私には無いことも併せて白状しておく。

 

そんな中にあっても興味深かったのは、
『私は・・・(中略)・・・「高野悦子」自身になりたい』
というところ。
嫌だ・・・私と同じことを考えてる。

 

また彼女は、音楽喫茶「シアンクレール」によく出入りしている。
そしてジャズやクラシックを聴くことを楽しんでいる。

 

私の趣味の一つはオーディオ。

父の影響をそのまま受けただけなのだが・・・


それにしても、独りで音楽喫茶にふらっと入るなんてことを読むと、彼女にとって音楽が、喉につかえた魚の骨のように上手く拭い去れない葛藤を一人で抱え込んだとき、ほんの一瞬とはいえ安らぎを与えてくれる存在だったという点に興味と好感を抱いた。

ちなみに、この音楽喫茶の店名「シアンクレール」って、「思案に暮れる」の洒落?
だったら面白いのに。

 

あと、読みながら、この子、女子高出身じゃないのかしら、って感じた。
本の最後にある略歴を見ると・・・やっぱり。

 

理由は、男子(中村、等)に対する眼に、ある種の共感をおぼえたから。
私もずっと女子校だったので。

 

欲しくて堪らないのに、激しく拒絶する。
その挙句、私は孤独だと勝手に思い悩み、苦しむ。

 

なんて愚かなんだろう。
なんてハシタナイのだろう。

 

この子、思想信条は真逆ではあるけれど、私に似ている。
そんな風に思えてきた・・・

 

6月中旬以降の日記から、読むのが辛かった。
赤の他人の日記であり、全くの無関係であるはずなのに。

 

自分の日記を読まされているような感覚。
もちろん、これは完全なる誤解でしかない。

 

最後の方は、嗚咽を上げながら、読んだ。
「ミステナイデ・・・オネガイ・・・ミステナイデ・・・」
この日記の行間から、この子の声にはならない声が聞こえてくるんだ。

 

違う、違うぞ・・・
その声は、私自身の声だ。

 

なんと愚かで弱いのだろう、この私は。
この弱さが嫌いだ、堪らなく嫌いだ、本当に嫌いだ。

 

克服すべし、己の弱さ。
嫌悪すべし、己の未熟さ。

 

最初にこの作品を読んだとき、この子の自殺は、最後の詩を完成させるための
“言葉ではない、もう一つの表現”
だと思った。
この解釈には、かなり自信があった。

 

でも現在は違う。
これは誤読以外の何物でもない。

 

バカ!
死ぬことなんてなかっただろう!

 

「自己を愛せよ」って言ってたじゃないか。
それなのに何だよ、最後の最後で自己の全否定という自殺を選択するなんて・・・

 

言ってたじゃないか、

「人間は未熟だって、不完全だ」って。
「それを克服しようとすることに価値がある」って。

 

ホント、バカだよね、私は。
この言葉、全部が全部、私自身に向かって叫んでいるんだから。

 

強くなりたい・・・
本心からそう思う・・・