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xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

「存在」について : アザゼルだって、チットは悩みましたぞ(笑) ~今では「忘れる」ことが「大人になる」ことだって分かっちゃったけど~

存在

アザゼルって・・・昔は・・・っていうか、学生気分が抜けなかった頃は、こんなコトを考えていたんだ・・・

社会に出て2年もすれば、そりゃあ刹那的にもなりますってば(苦笑)

 

 

えっと。。。

 

 

こんなドーでも良いコトを書いたのは、コチラのブログを拝読させていただいたからなんです。

とても良くまとまっていて参考になりますぞ、是非、ご一読あれ。

 

 

でね。。。

 

 

6 ライ麦畑でつかまえて

アメリカ、1951年。「ライ麦畑でつかまえて」。翻訳によっては「キャッチャーインザライ」。若い時の、思春期といおうか、世界とのずれ感をうまく表現している。10代に読んでほしい。年齢ごとに感想が変わるはずなので、大人になるにつれ自分の心の変化を実感できると思う。

  

この作品、好きでもあり、嫌いでもある。

「世界の在り様」と「自分の存在」というイメージのズレってあると思うんですが、それをそのまま文字にしちゃえば、こうなるってことなんだろうと感じたんです。

 

過去に、この作品を文学として受け入れたくないっ!て書いてあるのを読んだ記憶があります。

でも、この作品を文学として受け入れなかったら、文学を学ぶ意味なんてあるのかなぁ~とも思えちゃう。

 

 「他者」を排して「自己」を描き出そうとしたら・・・

  こんな風に書くしかないもの・・・

 

ただ、ブログ主さんの書評にあるように、ズレ感を『若い時の』と限定しちゃうのは、いささか同意し難い気もしちゃうな。

このズレ感は大人になれば克服できる、というものではなく、意図的に「忘れたことにする」だけだと思うから。

 

「忘れる」ということは、「他者」が創り上げた「社会」というものを受け入れることに他ならない。

つまり、「忘れる」ことで、「自己」が最も嫌悪すべき「他者」を受け入れることが出来ちゃうんです。

(間違って欲しくないのですが、無責任な大人が思春期の子に平然と言い放つ「悩んでいるだけじゃ、何も解決しないぞっ!」という論理構造とは全く異なるんです、コレは。)

 

この項の最後に・・・ここまで己の心象風景を文字という形で広く一般に曝け出したら・・・

作者サリンジャーのその後は、ある意味で必然だったようにも思えるんです。

 

3 変身

チェコ、1915年。一度紹介したが、はずせない。カフカ独特の不穏な雰囲気が漂う。長い作品が多いが、比較的短いので、カフカの魅力を味わえる。朝起きて虫なっていたら本当に絶望や、しかも理由なく。

 

2 異邦人

フランス、1942年。「不条理」が主題の一つとされるカミュの代表作品。たんたんと絶望に向かっていく不穏な雰囲気は臨場感たっぷりだが、その中にも熱い思いが込められている。構成も計算しつくされていると思う。これも比較的短いので、カミュの魅力をたっぷり味わえる。どうして世の中はこんなにも不条理なんだ!!

  

一時期、存在についての疑問が晴れず、この手の本を片っ端から乱読した記憶が鮮明に残っています。

でも、大学に入ってからは・・・特に本郷に来てからは・・・そして、社会に出てからは・・・

 

縁遠くなったんです。

高校時代、ヴィットゲンシュタインの「論理哲学論考」を本屋さんで読んでいたとき、愚かなるアザゼルには欠片も思い付くことの無かった「全存在を定義しよう」とする試みに、体全体を貫く電撃のような衝撃が走るわ、涙が止まらなくなっちゃうわで、ドーしようかとマジで困ったぐらいなのに・・・

 

今では

「仕方ないんだよ。生きてくためには忘れちゃうんだよ、そんなこと。」

って他人にシャーシャーと言っちゃいそう。

「大人になることって、忘れちゃうことなんだなぁ~」

と思う、今日この頃でござる。

 

1 カラマーゾフの兄弟

ロシア、1880年。ドストエフスキー最後の長編小説、世界最高峰の文学の三本の指に必ず入る。これを読めば人生に必要なことすべて書いてあるってなんかの本で読んだ。いかんせん長くて名前もややこしいので、途中で妥協しがち。作品もメッセージもだが、クライマックスも衝撃的。我慢してでも、読んでみたい。

 

作者のドストエフスキーは人間的にはサイテーの人物。

サイテーの人間がサイコーの作品を生み出すという皮肉。

コレだけでも読みたくなっちゃうでしょ(笑)

 

アザゼルは、どっかの誰かみたいにロシア文学サイコーと叫んだりはしないけれど、未だに文学の世界は、ロシア文学の作品を手を変え品を変えて組み替えているだけのような気がします。

でも、旧約聖書の「創世記」や「ヨブ記」あるいは「ダニエル記」などを読んでいると、ロシア文学もいらないんじゃかしら・・・とも思うんです。

 

 

というわけで。。。

 

 

いつものように、まったくまとまりの無いままに終幕。

お許しあれぇ~