xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

「砂漠の惑星」(スタニスワフ・レム)を読む ~所詮「人間」でしかないことの限界と微かな希望~

 

えっと。。。

 

映画「惑星ソラリス」(タルコフスキー版)と

ソラリス」(ソダーバーグ版)が大好き

なアザゼルです。

ちなみに、「惑星ソラリス」は日本での公開当初、SFファンですら酷評する有様で、一方の「ソラリス」は興行で大コケ(注 : 興行としてみれば、映画の製作費すら回収できないどころじゃない大損した大失敗作品)。

 

もっとも・・・形而上学的問題に満ち溢れ、映画としての芸術的完成度の高さから「惑星ソラリス」は、現在では名作という評価が一般的。

アザゼルとしては、他人が名作と言おうが駄作と言おうがドーでもイイですし、評価基準はたった一つ「自分が面白かったか否か」だけ。

 

その評価基準に従えば、この両映画ともアザゼル的には「アリ」です。

内容・構成だけでなく、映像の美しさという点でも、両方とも十分と言えるんじゃないかしら。

 

 

でね。。。

 

 

数年来、っていうか本郷に来てからズッと入り浸っている古本屋さんで「何か面白い本はないかなぁ~」と探していたら・・・

お店のご主人から、

「{アザゼルの名前}ちゃん、映画「惑星ソラリス」が好きだったよね。

 原作者の作品、読んでみたら。」

とお勧めされたのが、今回取り上げた、故スタニスワフ・レムの「砂漠の惑星」(ハヤカワ文庫)

 

ハッキリ申し上げて「キレイ」とはとても言えない状態(紙・・・焼けてんじゃん)でしたし、別に原作者のファンでもございませんでしたので、ホントはスルーしちゃいたかったんですが、ご主人がせっかくお勧めいただいているものを無碍にするのも憚れましたから・・・

購入しました、他の本とともに(というより付録みたいに感覚で)

 

調べてみたら、この作品、発表されたのが1960年代前半(!)

「はぁ!? 半世紀も前のSF小説、読めっていうわけ???」

で、当然の如く、1ページたりとも目を通すことなく、書棚の奥へ「押込めの刑」に処しました(笑)

 

購入したことすら記憶の中から抹消されていたんですが、先日、お部屋を片付けていたら、不意に出てきたんです、この本。

何て申しましょうか・・・やけに寂しそうにしている風に感じたんですよね、本が。

(あっ!? アザゼル、「本が何か喋っているのが聞こえる」みたいな精神的な疾患を持っているわけじゃありません。一応、自己弁護しておきますね。)

 

お片付けの最中に、何気なく、ホントに何気なく、この本を開いたら・・・

見事なまでにハマりました(!爆!)

 

凄いですよ、この作品。

アザゼルの嗜好にガッチリ合った、って感じなんです。

 

どんなお話なのかっていうと・・・

書くのがメンドいので、コチラをどうぞ。

砂漠の惑星 - Wikipedia

 

ゴメンね

(m´・ω・`)m ゴメン

このwikiの記事、あらすじ、前半の途中しか書いていません。

だから、読んだことの無い方にとっては「何のこっちゃ???」ってなりますよねぇ~

 

 

でもね。。。…

 

 

アザゼルが「凄いっ!」って思ったのは、「敵」の正体なんかじゃないんです。

確かに、「敵」である「黒雲」が、非常に小型で単純なモジュールの集合体(群体)であり、極小のモジュールが集合し巨大な群体を構成すると高度な迎撃システムへと変貌し、人間の記憶機能を完全に麻痺させ白痴状態へと追いやる強大な磁場を発生させる・・・という設定は興味深かったけれど。

(「そんなのよくあるSFネタじゃん!」と思った貴方、この作品、半世紀前のものだってこと、忘れてません? 「よくあるネタ」の「オリジナル」かもしれないんですよ。)

 

これほど人間ドラマの希薄な作品は、そうは無いはず。

特にクライマックスの場面では、ほとんど会話すらない。

 

そもそも登場人物の具体的なプロフィールめいたものの描写もほとんどなく、作中での人物像の深堀など全く関心がない。

ただただ、各人に与えられた役割があるだけ。

 

ことほど左様に「人間ドラマ」とはほど遠い作品の何が良いのか?

 

個人のレベルでの人物像を克明に浮き彫りにしなかった、もっといえば、意図的にそうしなかった(あるいは、書けなかった)からこそ、その存在を比較的容易に相対化できたと思うんです。

つまり、「彼は・・・」ではなく、「人間は・・・」というように。

 

アザゼルが感じた「砂漠の惑星」の面白さって、悲しくなるほどにストーリー上の因果関係が放棄されてしまっている点。

コレはもう、明らかに狙ったものでしょう。

 

間違えないでくださいね。

ココでいう「因果関係」というのは、「人間の常識に照らした場合に成立しない」ものであって、「砂漠の惑星」と称される惑星において成立している生態系あるいは生命体においては、何ら不整合なく成立する因果関係なんです。

 

 

つまり。。。

 

 

人間である限り、決して逃れられない認識の限界が厳然と存在し、他の恒星系において成立している生命体とコンタクトしても、相互理解などは不可能だ。

作者はそう解釈しているのでしょう。

 

ココで描かれているのは、救いようの無い「絶望」

人間のチカラでは、もはやドーしようも無いんです。

  

 「情報」とは何か?

 「知性」とは何か?

 「因果」とは何か?

 「認識」とは何か?

   そして

 「生命」とは何か?

 

しかも、これらが哲学的な問題として扱われているわけではない、という点には留意が必要ね。

この点、かなり重要だと思うんです、この作品を味わうに当たって。

 

人間が「万物の霊長」などと踏ん反って威張っていられるのは、たかだか狭い地球上だけのこと。

他の惑星にまで足を伸ばせば、チッぽけな存在でしかない。

 

「そんな人間に、どれほどの価値があるというのか?」

「そんな人間が作り出した社会に、どれだけの価値があるというのか?」

彼は不躾なほど、ド直球で読者に切り込んで来るんです。

 

よくよく考えれば、人工知能が人間の思考能力を2025年には超えると言われる現在、地球上ですら人間が頂点に君臨できなくなる日がやって来るのも、さほど遠い話ではないのかもしれません。

人間が存在しなければ宇宙も存在しないという「人間中心主義」的宇宙観の終焉も近いというのは言い過ぎでしょうか。

 

 

それでも。。。

 

 

気になって手に入れた、映画「惑星ソラリス」及び「ソラリス」の原作、「ソラリスの陽のもとに」の最後の一文。

しかし、私は、驚くべき奇蹟の時代はまだ永遠に過去のものとなってしまったわけではない、ということを固く信じていた。

作者も、少なくとも、その当時は微かでも希望があると感じていたはず。

 

否・・・

コレは「希望」を意味する言葉ではないのかもしれません。

「固く信じる」以外に、もはや認識する術はすべて失われた・・・とも考えられるのですもの。

 (´・ω・`)ショボーン

 

 

余談として。。。

 

 

アザゼルが、この作品を読んでいて気付いた点があるんです。

「神のみぞ知る」

という意味が、これほど平易に表現された作品も珍しいなって。

 

たかだか人間の認識できるレベルなんて、せいぜい地球規模が限界。

これはもう、人間に生まれてしまった以上、不可避なコト。

 

例えばね、ダニやノミにとって、人間の英知の結晶ともいうべき作品(文学でも音楽でも、あるいは科学でも)は全くの無価値です。

だって、まったく(最小単位の一文字、一音符たりとも)理解できないんだもの。

 

もし「ダニやノミ」という部分を「人間」に置き換え、「人間」という部分を「神」に置き換えたら?

人間の知性を遥かに超える、というか全く次元の違う「神」の意志が分かるはずがありませんよね。

 

更に「神」と置き換えた場所を、「他の惑星の生命体」と置き換えると・・・

スタニスワフ・レムの作品のコンセプトになっちゃうんです(笑)