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xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

道具としての『死刑』 ~『絞首刑』(青木 理さん)の書評から~

今回は、ふにやんま様のブログから引用させていただきました。

お取り上げになった書籍の題名は「絞首刑」

 

アザゼルが大嫌いな青木理さん(補足:生理的にダメ。論理の問題じゃないの。)を複数回にわたりお取り上げになっていらっしゃったので、興味は湧いてきちゃったんです(笑)

というわけで、コチラに書いてみようとした次第。

 

 

えっと。。。

 

 

突然ですが、自殺した人間って、実際に見たことがありますか?
老衰や事故、あるいは他殺ではなく、自殺。

 

アザゼルは、2度、見たことがあります。
この場合、2体と表現すべきなのかもしれません。

 

ともに中年男性。
自殺方法は、双方とも首吊り。

 

さほど高くない木の枝から、輪になった縄に首を吊るしていたのも同じ。
人間って自殺する方法まで似かよっている。

 

興味深かったのは、お二人とも、背広上下にワイシャツ、ネクタイという装いだったこと。

死出の旅路の正装なのか、あるいは、この世への一切の未練を断ち切る意志の表れなのか。

 

1人はまるで眠っているように見えたんです。
むしろ、木の枝にぶら下がって遊んでいるかのような感じ。

 

あぁ・・・このヒト、やっと楽になれたんだろうなぁ~
アザゼルは、そんな風に素直に受け入れられたんです。

 

もう一人は、これぞ首吊り自殺体ともいうべき有様。
眼から、口から、股間から、大量の液体を垂れ流し。

 

ふぅ・・・これは流石に直視に耐えられないなぁ~
こうなるとヒトというよりモノとして見るしかないか。

 

自殺をとやかく言う方は少なくないけれど、自殺した姿ってじっくり見たことなんてあるのかしら?
自分で自分を殺す、自分で自分の存在を全否定する、そんな状況に至った人間の心理の前に、言葉はただ空転するばかりなのに。

 

アザゼルがヒトの死を考えるとき、あの自殺体のことを思い出すんです。
それが自殺ではなく、老衰でも事故でも他殺でも、あるいは刑死であっても。

 

どんな不平等社会に生まれようと、一切の貴賤の区別なく、死だけは平等に与えられる。
人間が言葉を弄して作り上げた理念のような、前提となるパラメーターを操作することによって如何様にも結果が変わるシミュレーションのような、そんないい加減なものではなく、物理的実体として。

 

ヒトがヒトを殺す
自分で自分を殺す

 

死というモノを前にして考えたとき、(法学的見地は当然として)社会学的もしくは宗教的見地からの抗弁って、どれだけの価値があるのでしょう・・・
価値っていうより、本質的(根源的)問題なのか否か、って感じだけど。

 


さて。。。

 


チットばかり今回の問題(死刑を存続させるのか?)を離れますね。

死刑問題を考える上での思想的基礎を成す「哲学」って、「人間は、動物ではない」という基本的な考え方が底流に流れているように思えてなりませんの。


それが観念と現実の関係が逆転させるものだとしたら・・・
本能に身を委ねて行動する動物との距離が開けば開くほど、動物的本能からの遠さこそ、ヒトとしての「理想の姿」であると考えるものなら・・・
そんなモノの行く末に、本当に「幸せ」などあるのでしょうか???

 

登山家であっても高地に行けば行くほど酸欠状態となり行動が困難になっていく。
思想家であっても純粋理念に至ろうとすればするほど思考停止状態になっていく。
宗教家であっても絶対的存在の神に近づこうとすればするほど理想と離れていく。

 

じゃあ、ニーチェが唱えたように自然への回帰が「幸せ」をもたらすのか・・・
それはチト違うんじゃないかしら・・・

 

じゃあ、儒教のように、世の不合理さを受け入れて中庸に身を置くことを良しとすべきなのか・・・
それもチト違うんじゃないかしら・・・

 


さてさて。。。

 


「死刑の社会的利益」について考えてみましょう。

よくある答えが、社会の安全確保。

 

一般に安全確保の対策には、おカネも時間もかかる。
それに見合うだけの利益は、実は安全確保などではなく、(心理的な)安心を得るというもの。

 

「安心」は、客観的に危険が存在しないという「安全」とは本質的に異なり、危険が無いだろうと考える主観的な推測に過ぎません。
しかし、推測に過ぎないはずの防犯対策(例:ドアに複数の鍵を付けたり、個人なら自宅に防犯カメラを設置したり、セコムのサービスを利用したり・・・)に人々が喜んでおカネを支払うのは、それだけ安心を得たいという心理的効用が高いことの証。

 

治安対策を強化すればするほど、社会全体に漠然とした不安を引き起こす。
想起された不安は、更なる治安対策への要求を生み出す原動力と成り得る。
立法・行政・司法は、そのような要求を満たすため一層の治安対策を実施。

 

例え犯罪が減少しようが、世間一般に消えることの無い不安が意識下に残るんですよね。

これはマッチポンプみたいな不安想起の循環構造といっても良いのではないかしら。

 

しかも、安心は主観的な推測であるので、僅かでも危険が存在すると感じるや否や、たちまち喪失されてしまう。

だって問題は、危険発生の確率ではなく、危険に晒される可能性があるかどうかだけなのですから。

 

つまり、世間一般を相手にする場合、「例え僅かでも自分の身にふりかかる可能性のある危険」については、客観的な事実を指し示しても、さほど説得力を持ち得ないってこと。
言い換えれば、「世間一般の常識」は、客観的な事実に基づくものではなく、むしろ、根拠の無い噂のような主観的推測によるところが大きく、しかも、一旦動き始めたら現実を変える力さえ持ったりするんです。

 


ということは。。。

 


「死刑」を刑罰としてとらえるのではなく、社会的安心を与えるための道具であるととらえたら、どうなるでしょう。
これはもう、おカネも時間もかからずに最大限の効果をもたらす最良の策となり得るんじゃないかしら。

 

更生させたり、社会復帰させたりするおカネも時間もかからない。
しかも危険発生の元が消滅するんですから、僅かでも危険発生の可能性は絶たれることになりますものね。


間違って欲しくないのは、人道的見地だとか、人権云々だとか、そういうことを問題にしているのではなく、
道具としての死刑
の効用を問題にしているってこと。
世界各国でテロ活動に怯える日々が続く今、死刑を求める要求は、少なくとも日本で主流を占めるような地位を占めることはないだろうなぁ~、って思ったり。

 


そもそも。。。

 


ほとんどの日本人にとって、死刑なんて縁遠いものの極北クラス。
「縁遠い」=「関係性の喪失」というわけで、死刑制度への関心は・・・おそらく非常に低い。
(各種のアンケート結果を鵜呑みにしちゃダメよ。
 あんなの、質問されたから敢えて答えただけで、普段は全く興味ないっていうのが本音でしょう。)

 

そんなこんなで、アザゼルがこの世からオサラバするときまで、日本では死刑が存続しているんだろうと、主観的な予測をしている次第でござるぅ~