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xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

われは傷口にして刃 いけにえにして刑吏 ~松本俊夫さんの映像芸術は、何故かくも幻惑的で魅力的なのでせう~

映画「薔薇の葬列」(Funeral Parade Of Roses) 

一体、何度観たことでしょう

 

ギリシア悲劇の代表作「オイディプース王」の松本流解釈によるパロディにして辛辣な皮肉

 

害悪的であり 病的である しかして 純粋であり 無垢である

倒錯した感覚を底流に湛えながら、人間の持つ弱さの実体を抉り出す

 

しかし・・・少し待て

この映画は、ピエル・パオロ・パゾリーニの「アポロンの地獄」を想起させません?

 

アポロンの地獄」は制作されたイタリアでは不評であり興行的にも失敗したが、不思議なことに日本では非常に高評価を得る

映画史に刻まれた古典「イントレランス」と同じ不遇の映画

 

おそらく「薔薇の葬列」は「アポロンの地獄」に大きな影響を受けたのでしょう

両眼を自ら貫くシーンの容赦無く厳しい映像は「アポロンの地獄」のそれだもの

 

「薔薇の葬列」は基本的にパロディかつ実験映画

だから「アポロンの地獄」のような、この世ならざる雰囲気などは無い

 

それでも共通するのは「渇き」と「荒廃」

一方はギリシア(実際の撮影はモロッコ)、他方は日本(実際にゲイの聖地たる新宿)

全く異なる風景のはずが、「渇き」と(内面の)「荒廃」いう共通項によって不思議と違和感を感じさせないのです

 

説明過多の映像は、本当に詰まらない

細切れにされたモンタージュのような映像の”行間”を、己の思考回路を全開にして挑むことを要求してくる映像こそ、芸術の名を付すに相応しい

 

極度に抽象化された映像だからこそ、紡ぎだせる“詩情”があるのだから

残念ながら「薔薇の葬列」には、「アポロンの地獄」のような厳しさは無い

 

これがパロディの限界というものなのだろう

限界といえば・・・

 

アポロンの地獄」の監督パゾリーニの最後は、映画的な悲劇で幕を閉じる

1975年、制作した「ソドムの市」が、イタリア国内でのネオ・ファシスト運動への痛烈な批判であるばかりか、イタリアという国家を南北に分断しかねない、北部イタリアに搾取される南部イタリアを描くという、あからさまな政治的攻撃性を含んでいたが故に、パゾリーニは惨殺された

 

日本でも大杉栄らが甘粕大尉に殺された時と同様、激しい暴行を受けたうえでの惨殺であった

ちなみに、大杉栄伊藤野枝らの遺体は、肋骨が滅茶苦茶に折れていたというから、絞殺というより暴行死という方が正しいのかもしれません

 

パゾリーニも、大杉栄も、共産主義あるいは社会主義の思想の信奉者だったのですから、これは革命家としての正しい最後

このような最期を遂げたからこそ、伝説足り得るのですもの

 

松本俊夫さんは・・・映像作家として、映画理論家として、大学教授として一家を成し、現在もご健在

松本俊夫さんは映像作家であっても、革命家ではない、ということなのでしょう

 

その限界が映像にどのように反映しているのか

興味深い考察ではございますが、今回はこれにて