xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

国民・国家・資本 ~アザゼルのドーでもイイ独り言(笑)~

チット思うところがあって、夜中にいくつか本を読み直していたんです。

 

「暴走する資本主義」(ロバート・ライシュ)

「資本主義はなぜ自壊したのか」(中谷巌

ブラック・スワン」(ナシーム・ニコラス・タレブ

「平等社会」(リチャード・ウィルキンソン&ケイト・ピケット)

全体主義の起源」(ハナ・アーレント

アナーキー・国家・ユートピア」(ロバート・ノージック

「歴史の終わり」(フランシス・フクヤマ

「終焉の時代に生きる」(スラヴォイ・ジジェク

 

一見すると、バラバラな印象をお受けになるかもしれません。

ブラック・スワン」なんてファイナンス系の内容ですし。

 

でもね。。。

 

アザゼルは、アザゼルには・・・

何か言語化できない、漠然とした未来への不安を感じるんです・・・

 

ココでいう「未来への不安」というのは、アザゼル個人の問題などではなくて、アザゼルと自称している個人が属する社会=国家のレベルでのお話。

近代以降、当然視され続けてきた「国民国家」という概念が、その存立基盤たる「ネイション」の思想ごと揺らぎ始めているのではないか、それも、抑制不能なほどの流動化が徐々に、しかも確実に進展しているのではないか・・・

 

そして。。。

 

その反動としての全体主義的史観ともいうべき、日本人自身の手による無邪気なまでの日本称賛(例:世界が驚く日本の凄さ)の流れ。

経済が成長から停滞に移行したとき(というより、国民生活が豊かさから貧困への流れが不可避となるとき)、政治思想史で取り上げられてきたように、右翼化への暴走が顕現化しつつあるようにも感じるんです。

 

間違えないでくださいね。

アザゼルは、これらの動きに拒絶感を持っているのではないのですから。

 

過去は未来を語らない。

未来は、過去の(直線的な)延長線上にあるのではなく、断続的に発生するイベントを繋ぎ合わせた果てにある。

 

未来は、如何なる意味においても予測不能。

だから、国家レベルで極端な暴走が生じたとしても、何らおかしくはない・・・

 

ということを前提にしつつ。。。

 

日本という「ネイション」が本質的に対峙すべき敵の正体は、北朝鮮でも、中国でもなく、グローバルの名の下に暴走し続ける凶暴化した資本主義なのではないか。

民主主義と資本主義は、親和性が高いとはいえるものの、決して同質のものではなく、コレを混同して考えるコトは危険ではないか。

 

もし、凶暴化する資本が繰り出す終わりなき波状攻撃から、日本という「クニ」を国民国家として維持せんとするのなら、「天皇」を中心とする全体主義国家へと変貌するのも、あるいは必然なのかもしれません。

グローバル資本主義にとって、国民国家という存在は邪魔なモノでしかないのですから。

 

こういうと。。。

 

「要はバランスの問題だろ。

 民主主義も資本主義も完璧なものでは決して無いが、それ故に相互補完させる必要があるんだ。

 軽々に議論を極端な方向に持っていくことは妥当性を欠くものじゃない?」

といったご指摘をいただくかもしれませんね。

 

でも、そういった指摘をされる方は、おそらく何も解決できない。

というより、未来のことなど見えてもいないし、考えてもいない。

 

バランスがとれているかどうかなど、所詮は試行錯誤の結果でしかなく、事後的にしか判断できないのですから。

一般論として、大きな組織であるほど問題が顕現化し難いものではあるけれど、それは問題が無くなったわけではなく、むしろ、問題が組織内部から切除不可能なほどに転移してしまったことを意味することに気付かなきゃ。

 

・・・

・・・・・・

・・・・・・・・・

 

( TДT)ゴメンヨー

何だかスッゴク偉そうなコト、臆面も無く書いてない、アザゼル。

 

こういうコトをポンポン書いちゃうところが、アザゼルの軽薄さを如実に表しているんですよねぇ~

まあ、こんな阿呆ですから、ご容赦くだされぇ~

 

で。。。

 

もし日本が全体主義国家になったら・・・

アザゼルは、故・イルマ・グレーゼさんを目指します!(ウソ)