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xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

またまた仏教ネタ : 「人生とは?」などと形而上学的質問はしてはならない、というのが仏陀の教え ~仏陀の教えを持ち出すことなく、ヴィットゲンシュタインが見事に喝破しちゃっているけど~

えっと。。。

 

「生きるとは何か?」

「真実とは何か?」

「正義とは何か?」

こんな形而上学的な問いに、臆面も無く答えるお坊様が、それこそ数えきれないぐらいにいらっしゃる。

ウソだと思ったら、大規模書店(お茶の水三省堂とか、池袋のジュンク堂とか)に行って仏教関係の書棚を眺めてごらんなさいな。

 

でもね。。。

 

こういう形而上学的問いに堂々と答えられる、ということは、そのお坊様は解脱していないことの何よりの証左。

単に仏教関連の知識とか儀式とかの知識はお持ちでも、それだけのこと。

 

もし彼が解脱しているのなら、仏陀のように何も答えないはずだから。

衆生と同じく「世界」の中に自我を置く限り、解脱することはあり得ないから。

 

オウム真理教のように「解脱」に最終だの何だのと意味不明な阿呆な解釈をテキトーに付けるのは、ハッキリ言っちゃえば、アザゼルのレベルの者でも簡単にできてしまうんですよね。

「解脱」に上も下もあり得ない、「解脱」とは自分自身を「世界」から切り離すことに他ならないのに。

 

「解脱」を無知蒙昧な衆生を救済するためと解釈する宗派もあることはあるんですが、そんなことは副次的というより、結果的にそうなるかもね(笑)ぐらいのお話。

大乗的な思想には、少なくともアザゼルはついて行けませんぞ。

 

「我」という認識を消し去り、意識下における「世界」との完全なる分離を果たすことができた者にとって、「生きる」だの「真実」だの「正義」だの、そんな問題は問題足り得ない。

何故なら、そのような問題は「世界」の中にのみ存在する「論理」の問題に他ならないから。

 

で。。。

 

この点を明確に言語化しちゃったのが、ヴィットゲンシュタインの「論理哲学論考

カントの「純粋理性批判」(←<(_ _)>コレ・・・まだ理解できているとは到底呼べないレベルなのですが・・・)でのアンチノミーの問題を、アザゼルはヴィットゲンシュタインの手によって解決されたと勝手に思い込んでいるんです。

(ご批判は、いくらでもOK!でございます。ただし、いくら批判されましても、アザゼルには答えるべき言葉を持ち合わせておりませんので、悪しからずぅ~)

 

かつて、某テレビ局の番組で、ティーンエイジャーからの「何故、人を殺してはいけないのか?」という問いを投げかけられたとき、大人が誰も明確に答えられなかったってことがあったらしいんです。

それを聞いた僧侶が、たいそうお怒りになって、

「私ならビシッと説明できるに、現代の大人は全然なっていない!」

と某誌で回答されているのを読んだ記憶があります。

 

アザゼルは、この回答(しかも、倫理上の云々という僧侶の説明は、アザゼルには単なる思考停止の教条的解釈に過ぎないとしか思えませんでしたが)を得意げにしちゃった僧侶こそ、もう一回、修行をやり直したら?って思ったりしたのです。

この手の問いには、論理と言語から構成される空間内では、明確に答えるすべはないのですから。

 

経験することによってのみ解釈はなされ、言語化することは不可能。

宗教家の悪い癖は、出来もしないことを平然と語るところ。

 

「世界」にとどまる限り、非論理との境界においては言語が空転する他の無い論理空間の限界を受け入れ、ただ沈黙するのみ。

言語をむやみに浪費する宗教家の言葉など無意味なものと無視し続ける立場こそ、真摯な姿勢と言うべきだと・・・アザゼルは思うんです。