xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

仏教における解放=解脱についての雑感 ~「世界」を受け入れるから苦しみがある、だから・・・「世界」を拒否することでしか、解放されることはない~

えっと。。。

 

アザゼルは今から5年ほど前、一人で高野山に上ったことがあるんです。

仏教(といっても当時は仏教美術の方)に興味があって、密教の聖地、高野山なら(具体的な目的は無かったんだけど)何か得られるんじゃないかと思って。

 

でね。。。

 

昔なら女人高野までしか行けなかったんですが、今では女子も完全にフリー(笑)

ジェンダー論の観点から考えれば当然だ!ってことになるんだろうけれど、コレじゃあ仏教の伝統も何もあったものではないですよね。

 

とあるお寺に泊まって、精進料理をいただいて、お坊様のありがたぁ~いお話をお聞かせいただいたわけ。

でね、そのとき抱いた違和感がズッと喉元に閊えていたんです。

 

お坊様曰く「良き妻、良き母となって、幸せな家庭を」とのお話をお聞きしたんだけど、コレがどうにも納得できなかった。

間違えないでね、一私人でしかないお坊様が「良妻賢母のススメ」を説いたぐらいでトサカに来るようなことはないから。

 

アザゼルが感じた違和感っていうのは、仏教の教えに反するように思えたからなんです。

本来、出家者が解脱することで苦しみから解放されることを目指すことが根本にあるはずなのに、世の中・・・っていうより、もっともっと広く神羅万象、この「世界」そのものとの関係性を積極的に強固にしちゃって、どうやって解放されるというの?

 

そもそも・・・精進料理をいただくとき、お坊様の奥様も一緒にいらしたんですが・・・(親鸞上人らの主張も踏まえたうえであっても)お坊さま自身、出家者でもなんでもない、タダの在家。

仏陀の教義から乖離し過ぎたというか、捻じれ切ってしまった日本の仏教界に救いを求めても、おそらくは何も得られないだろうなぁ~って感じちゃったんです。

 

眼に見えるモノ、耳に聞こえるモノ、鼻でにおうモノ、舌で味わうモノ、身体で感じるモノ、意識として考えるモノ、それらすべての総体としての「世界」をあるがままに受け入れてしまえば、いつまで経っても解脱なんかできるものですか。

「自我」を拭い去り、「世界」を拒絶する、それ以外の方法で解脱なんかできないんじゃないかしら。

 

物欲を捨て、肉欲を捨て、幸福であろうとする意識すらも捨てる。

(リストラされちゃって喰えなくなったようなホームレスみたいな意味ではなく)積極的な意味での「世捨て人」になる。

 

実際にインドには結構いらっしゃるみたいだけれど、性器すら隠さず、布一枚纏わぬ聖者。

日本じゃ受け入れられる可能性は無いのでしょうが、むしろ、そうでなければならないような気がするんです。

 

ジャイナ教の始祖もそんな感じだったみたいだけれど・・・

突き詰めていけば、そうなるのが必然なのであって、金色の袈裟だの紫衣だので着飾った人形みたいなマガイモノを崇めて、一体、何から救われてようというのでしょう?

 

こんな思いが未だに喉に閊えて取れない・・・

もしかしら・・・どこにも救いなんか、ありはしないのかもしれませんね。