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xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

アマルティア・セン 「合理的な愚か者」を読む ~「合理的」という仮定あるいは前提に基づき求められた結果が幸福をもたらすという幻想を撃て!~

えっと。。。

 

依然、体調最悪のアザゼルです。

痛みが全身を覆い、もはや痛いのだか何だか分からないって感じ・・・かな。

 

それでも、古本屋さんに出向くことだけは止めません。

もう生活上の行動様式というべきかもしれません・・・

 

さてさて。。。

 

今回購入したうちの一冊が、表題にあるセン博士の「合理的な愚か者」

経済学を齧った方なら、一度は書名を聞いたことがおありでは?

(アザゼルは、経済学系出身者ないんですぅ~)

 

この本、経済学と社会学の双方をその研究領域としています。

要するに、社会経済学あるいは厚生経済学の領域の本ってこと。

 

その根本思想にあるものは、

『社会における「価値」とは何か?』

という命題。

言い換えれば、

『現在主流派を形成している経済学および社会学が、なぜ、貧困や飢饉といった問題を乗り越えられないのか?』

って感じかしら。

 

で。。。

 

セン博士が指摘したのが、

「(合理的)経済人って・・・何やねん!

 おかしいんとちゃいますか!」

ってこと。

あっ、大阪弁にしたのは、単にアザゼル風味ってことで・・・。:゚(;;≡m≡;;)゚:。

 

「オイオイ、理論上の“合理的経済人”を想定した「限界効用」も単なる仮説じゃん! 

 仮説なんだから、実情を無視した前提を置くことに何の問題も無いはずだ!」

というのなら、それこそセン博士の指摘する合理性の罠に陥っているんですぞ。

血も通っていない唯の木偶人形を前提として組み上げた経済学なんて、ドーして人間社会を幸福にできると言い切れるわけ?

 

更に、この問題をもっと煎じ詰めていけば、経済と倫理の問題は、ホントは表裏一体ともいうべき性格のもので、

「倫理無くして経済無し」

という図式がオボロげながらに見えてきます。

 

米国大統領の共和党候補に名乗りを上げている

「トランプの大馬鹿野郎」(キッパリ!)

に垣間見れる典型的米国人が大好きな、「市場主義」の容赦無さと倫理観など屁とも思わぬ傲慢さと強欲さに 吐き気を覚えても、結局は、その中にドップリと首まで漬からなければ、日本国内ですらも生き延びれないという・・・悲しく受け入れ難い現実。

 

「貧困だぁ?(笑)

 そんなの自業自得だろうが!!」

と軽々に口にする輩には、社会安定性の視点が欠けている。

持続可能な社会へと舵を切るべきときは・・・もうすぐそこに来ているのかもしれないのに・・・

 

でね。。。

 

最初に書いた「価値」の問題に立ち返ると、

『個人の「価値」と(その群体である)社会の「価値」を無批判に同じだと解釈することは、倫理的堕落に他ならない』

ってことですよね。

集団自衛権行使、安全保障関連法、TPPの賛成派のアザゼルが、なぜ自民党憲法改正法案には絶対に賛成できないのか・・・その理由がココにあります。

 

しかぁ~し。。。

 

もっと言っちゃうと、この個と集団の「価値」の整合性の問題以前に、安全保障法案審議の過程で広く知らしめることになったのが、

「集団における意思決定の不透明さ」

間違えて欲しくはないのだけれど、これは現在の自民党だけを対象したものではなくて、かつての極左集団、連合赤軍での「総括」でも同じで、どの集団にも多かれ少なかれある問題。

 

多数決には欠陥もあるけれど、それ以上の意思決定方法が見当たらないってことで、学校の倫理の教科書に例外なく記載さえている

「最大多数の最大幸福」

って、実はトンデモナイ暴論なのかもしれません。

今も故フリードマン博士らに代表されるシカゴ学派の影響力って半端ないから、(しかも民主主義の根本思想の一つでもあるので)この言葉の持つ影響力も・・・衰えたりしないんでしょう。

 

さて。。。

 

ココで功利主義の象徴的な言葉を出し理由は、

「自由の問題」

に直結するから。

最初に取り上げたセン博士が示した命題の持つ破壊力は尋常ではなくて、

「個人の自由と社会の自由は、果たして一致するのか?」

という、あるいは「自由主義」を謳歌せんとする、わが国の社会構造そのものへの痛烈なカウンター・パンチともなり得るんですよね。

 

あと。。。

 

ホントは「厚生」の問題にも触れるべきなんだろうけど・・・

個人的には、なぜ統治者(政治家あるいは官僚機構)が「貧困」の問題に正面から対峙しないのか・・・その理由が分かるような気がするんです、直感としても・・・