xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

マイスター・エックハルト : 14世紀に教皇から異端宣告された考え方こそ、「ノンデュアリティ」の一つの到達点を指し示す ~「神は絶対的な無である」 だからこそ、神は唯一無二の存在なのだ~

今や全米で最も影響力があるスピチュアリストと称されるエックハルト・トール氏。

彼の著書を読んでいたんだけれど・・・

 

 

今一つ・・・というより、今二つ、否、今三つぐらい腑に落ちてこないんです。

で、ネットで疑問点の回答を検索していたとき、『エックハルト』で検索に引っかかったのが、今回取り上げるマイスター・エックハルト

 

 

読んだのが「エックハルト説教集」(岩波文庫

・・・ムズイ・・・でも、スゴイ!

 

 

内容が分かったなんて言いません。

ただ、カトリックという西欧神学体系においても、神についての考えを純化させれば純化させるほど、インド哲学の一つである「アドヴァイタ・ヴェーダーンタ」の教えとの類似性が顕著になってくることが分かったのは収穫。

 

 

人間の考えることなんて所詮は同じ・・・などと考える程度では、お話にもなりませんぞ。

「神について考える」ことは「世界について考える」こと

自体を意味し、それが、神との合一(宇宙意識への還元)へと帰結したという点こそが重要。

 

 

真理を理解することこそが大切なのであり、胡散臭い「覚醒」云々など全く視野の外。

この眼に見える世界は、(現時点では科学的に解明されていないものを含めて)様々な法則が縦横に交錯しながら構成された存在であり、今ここに存在するモノの全体集合が世界である・・・

 

 

教会など必要ない

教皇など必要ない

 

教祖も必要ない

グル(指導者)も必要ない

 

 

必要なモノは、存在するモノをあるがままに受け入れるという意識と実践のみ。

もちろん意訳し過ぎの過激な解釈と指摘されるかもしれませんが、キリスト教の一つの到達点が、インド哲学、あるいは仏教的世界観かと見間違えそうになる結論だったのいうのは驚嘆に値する。

 

 

自己からの離脱あるいは解放という手段によって、究極的な目的を達成する

ショーペンハウアーを読んでいたので、この点に関しては、何となく既視感をおぼえる展開。

 

 

神は、原初にあっては他者が存在しないが故に自己の存在を認識することもできずにいた。

これはすなわち、

である。

 

 

その神が、世界を創造した刹那、他者という存在を得て、神自身、自己の存在を認識することができた。

被造物によって、はじめて造物主は

自己

という存在を認識できるのである。

 

 

では、創造主たる神によって生み出された被造物たち、とりわけ、われわれ人間は、否応なく神と対峙せざるを得なくなるわけだけれど・・・

もし、われわれが積極的な意味において「無たらんと欲す」のであれば、どうなるのでしょう。

 

 

無であればこそ、神、世界との合一が果たされる。

これこそ「私という存在など無い」と認識することのよって、他者との垣根を喪失せしめ、世界との合一、もっといえば、神羅万象の根源たる宇宙意識へと帰還することができるとする「ノンデュアリティ」の基本思想と何ら変わるところはありません。

 

 

西欧においても、14世紀には、かような思考の高みへと至っていたことは記憶にとどめておいても良いと思うのです。

一神教においても、多神教においても「無の境地」こそ目指すべき高みだとすれば、それは禅の思想にも相通じるところが大いにございましょう。

 

 

 

ちなみに、マイスター・エックハルトの考え方は異端宣告を受けたが故に、彼自身の記録も事実上抹消されてしまい、詳しいことは分からないんだとか。

 当初は純粋な目的で組織化されたものであっても、やがては形骸化し、組織防衛・規模拡大こそが至上命題となるという証左ともいえるのかもしれませんね。