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xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

「悟り」とは、意識の変性体験を指すのか? ~意識は自己の中で完結するようなモノなのか~

スピリチュアル系の本を読んでいると、聖者だの賢者だの覚者だの・・・まあ、沢山の悟りを開いた方がいらっしゃること。

でも、その大半が意識の変性体験をもって「悟り」とみなしているんです。

 

これって。。。

 

アザゼルには理解し難いんです。

意識の変性体験が「悟り」だとするならば、そもそも「意識」とは何なのか?

 

意識の問題を自己の肉体に閉じ込めておきながら、それを無意識に「是」とする態度には、どうしても同意できないんです。

もっといえば、「意識」が変性するということは「絶対の真実」なり「隠された奥義」といった深遠に触れたことを意味するのでしょうか?

 

読んでいると・・・それって単なる思い過ごしなんじゃ・・・

そんな風にも思えてくるんです。

 

引き寄せの法則」関連の内容は酷いモノで、幸せ探しのための言葉遊び。

だって、引き寄せなんて、エゴ丸出しじゃない。

 

「私は幸せになりたいの!」

それが唯のエゴでしかないことに気付きもしない者が、ドーやって悟りなんて得られるのでしょう。

 

もしかしたら。。。

 

意識の変性体験なんて、何も必要ないのかもしれません。

「悟り」すら必要ないのかもしれません。

 

例えば、過去・現在・未来すら、概念でしかなく、実存しないのかもしれませんものね。

時間の概念を無視しようというのではなく、存在するのは常に”今”だけってこと。

 

例えば、「私」という存在を意識することで、同時に私以外の「他者」という存在を意識せざるを得なくなる。

言葉の本質は「創造者」であり、さまざまな存在を意識下に創造する。

 

じゃあ、「私」という存在を意識から消し去る・・・もっと正確にいえば、

そもそも「私」などというモノは存在しない

そう意識したとき、「他者」の存在は消え去るのか?

コレを合一のいうのか、融合というのか、還元というのか・・・

 

自分の中でも結論めいたものは出ていないけれど、「悟り」のために修行したりする意味があるとも思えない。

そして「悟り」が「救い」をもたらすとも思えないんです。