xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

ダンテ・アリギエーリ「神曲」を読む 〜この作品が今も尚、人文学史上の大金字塔と賞賛される所以を知る〜

 

この本は、地元の古本屋さんで見つけたもの。

分厚いので、ある意味、高級感はありますぞ(←無意味)

 

でもね・・・

古本なのに・・・

販売価格が定価と変わんないじゃん!

 

でもまあ、いいやぁ~ってことで購入してみたよ。

ソファでゴロゴロしながら読んでみたんですが・・・

 

マジで面白い!

掛け値無しの面白さ!

 

この作品は600年以上前、吉田兼好の「徒然草」と同時期に創作された作品であるにもかかわらず、現代に暮らすアザゼルのココロを揺さぶるのです。

だって、ココまで壮大なペンを使っての復讐劇って・・・チット考え付きません。

 

ちなみに、旧約・新約聖書とか、古代ギリシア・ローマ史なんかを個人的趣味から読んでいたんです。

でもね・・・この本を読みこなすためには、その程度の知識じゃ・・・全然足りない。

 

だからこそ、知的興奮を覚えちゃう。

そして、「三位一体」を意味する″3”という数字(および完全数(あるいは神聖数)とされた”10”)に徹底的に拘りつくして構成された、重厚かつ均整のとれた文章。

 

この物語自体の構成の美しさは、誤解を恐れずに書いちゃえば、あたかもコンピュータ・アーキテクチャの如き調和あるいは均衡を実現しているからなんです。

地獄と天国における厳然たるレイヤ構造は、その最たるものといえましょう。

 

つまり、このレイヤ構造は、ダンテがペンという道具で産み出した「神との通信プロトコル」。

ダンテがこの世界の有り様を、カトリック教徒の立場から描き出したモノという考えで止めるべきじゃない。

 

地獄を巡り、煉獄を巡り、天国へと至る何層にも連なる回廊、先ほどから申し上げているレイヤ構造は、敬虔なカトリック教徒であっというダンテが持てる知識と経験を総動員して創り上げた、物理的身体を持つ人間が望み得る究極点、すなわち、至高天の中心に坐す「神との対話=見神」を果たすためのプロトコルそのものを指すのだから。

その意味でダンテは、(世界の有り様を意味する)システム・アーキテクトと解釈すべきでしょう。

 

何故、この作品が西欧社会における人文学上の大金字塔とされるのか?

(所詮は日本語訳を読んでいるだけでしかないにもかかわらず)アザゼルには合点がいきましたぞ。

 

ただし。。。

 

ムスリムが禁書とする理由もガッツリ分かる。

ムハンマドと最後の正統カリフとされるアリーを地獄に落としちゃっているんだもん。

 

しかも、原書の本来の書名は「喜劇」

喜劇でスンニ派もシーア派も絶対に容認できないことを書いちゃったら・・・

現代なら「悪魔の詩」以上に世界中のムスリムから徹底批判されて、イスラム教国からは作者であるダンテには死刑判決が出され、ダンテを処刑した者には、多額の報奨金と死後の天国が約束されたことでしょう。

 

でね。。。

 

特に、地獄篇を読み進めていくと・・・ある映像が脳裏を過る。

ブラッド・ピット主演の映画「セブン」

 

監督はデヴィッド・フィンチャー

この監督の作品には独特の陰鬱さが全体を包み込んでいる雰囲気があって大好き。

(最近の作品は、このブログでも取り上げさせていただいた「ゴーン・ガール」でござったよね。)

 

なんでこんなことを書いたのかというと、「神曲」はそれ自体が、政争に敗れたダンテが故郷フィレンツェから永久追放されるとともに、教皇への謀反人としての汚名を着せられたことに対する、壮絶な復讐劇だから。

教皇支持派の兵士として神聖ローマ皇帝支持派と戦い、血を血で洗う戦場を必死の思いで駆け抜け、教皇支持派に勝利をもたらせたにもかかわらず、自分を裏切った者共への癒し難い恨みを晴らさんとして、刀をペンに持ち替えて執行した復讐。

 

だから、地獄の最下層、サタンがその中心に閉じ込められているコキュートスに落ちる最も重い罪とは「裏切り」とされている。

そして、あらんことか教皇を一人ならず地獄に落ちたと描いている。

 

ダンテ自身と対立したボニファティウス8世(この教皇教皇就任の経緯自体が非常に胡散臭く、非常に世俗的な立場を鮮明にしていたという。)などは、言わずもがな、地獄に落としている。

そして笑えるのが、教皇を何人も地獄に落としている(一方、天国界に引き上げられた教皇も何人もいる)にもかかわらず、カトリックでは、この作品を高く評価しているんだって・・・

(その理由は、多分に天国編での神学論争へのダンテ流の決着の付け方が気に入られたでしょう。)

 

フィレンツェのかつての政敵どもも地獄の業火に焼かれているのです。

これをペンの暴力と呼ばずして何といえば良いのでしょう。

 

そういった怨念に満ち溢れた感情で、魂の浄罪などと言われても・・・

そう思うのは当然。

 

だって、「神曲」という作品はダンテによるダンテ自身の魂の救済の物語。

作品の創作の動機は、確かに個人的な憤怒であったかもしれないけれど、長い長いこの作品を書くことで、彼の魂は落ち着きを取り戻し、やがてありのままを受け入れることのできる境地へと至ったのでしょうから。