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xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

フランツ・カフカ「城」、そして「変身」 ~自分という存在が向かうべき宛の無い空虚さ~

カフカの「城」を読んでいて感じたこと。

主人公のKには、自分が向かうべき場所(宛)が、実は無かったんじゃないかしら。

 

いつまで経っても到達しない場所。

一読すれば、向かうべき場所は分かっている・・・ように思えるんだけれど・・・

 

向かおうとしていた城は、いわば蜃気楼。

自分という存在を保つ、もっと言えば、自分という姿を維持するために、

 「そこにあるんだ・・・」

と、あるいは啓示的なイメージによって自分に思い込ませていただけの、有るのか無いのか、ホントは自分でも分からないアヤフヤなものだったとしたら・・・

 

そりゃあ、いつまで経っても着きませんよね。

だって、仮想空間(カッコ良く言うのなら、虚数空間)にしか存在し得ないものなんだもの。

 

何でこんなクダラナイことを書いているのかというと、もう一つの代表作「変身」で彼が何を言いたかったのか・・・

よく分かんなかったから。

 

一般に変身って、自己拡張(あるいは拡大)願望のようなものだと解釈されているけれど、小説「変身」のコアになり得る考え方とは異なるように思うんです。

上手く言えないけれど・・・それは

 「目標が無い」

ことの苦しみそのものなんじゃないかしら。

 

 「ココから逃げ出したい・・・」

と願いながら、

 「何処に行けば良いのか・・・」

そんなジレンマ(コレを不条理と言い換えても良い)に陥っている。

 

  俺は、逃げ出したいのだ!

  だけど、何処に行けば良いのか、皆目見当が付かないのだ!

 

では、思い切って考え方を変えてみましょう。

逃げ出したい・・・そう思う対象は何なのだろう?・・・と

 

自分という存在がいる「場所」なのか?

 それとも、

逃げ出したいと渇望する「自分」という存在なのか?

 

自分から逃げ出す=変身

そう考えれば、この小説も多少は分かり易くなるというもの。

 

しかし。。。

 

変身とは、それ自体が願望でしかない。

変身するという「夢」を見ているだけ。

 

変身は、何も解決しない。

ただ「夢」を見続けることで自分を慰めているだけ。

 

『ここから去ること

 それだけが私の願望だ』

 

これは夢なのだろう。

さまざまな意味において。

 

去ることができれば、自分を束縛している、鉄鎖によって拘束されている「社会」から逃れることができる・・・

しかし、逃れた先に待ち構えているものが、「社会」から逸脱した「はみ出し者」に堕するだけであったとしたら・・・それは、グレゴール・ザムザが最後に味わったような苦痛と侮蔑と死をもたらすだけ。

 

実際には変身なんかできない。

だから、カフカの小説のいずれをとっても、夢と現実の境界線が自明ではない(=あやふやである)ことを表現しているのではないはず。

 

この世界そのもの(自分という存在が現実のものだと感じているものの総体)が、自分が自分に見せている仮想現実でしかない。

そうであれば、自分という存在の位置付けが不可能になってしまう・・・

 

そんなことをイイタイのだと考えた方が、アザゼルには腑に落ちるんです。

真実だと信じていたものが、仮想現実だとしたら・・・

映画「マトリックス」みたいでしょ。

 

でもね。。。

 

もしかすると、

 「これまでの自分ではない『自分』になることができれば、いままでの色褪せたモノクロの世界から抜け出して、本当の意味での人生が味わえる」

と言い換えた方が、より正確に言い表しているのかもしれません。

 「自分ではない、もう一人の自分」

ドッペルゲンガー現象みたいではあるけれど、それこそが目指すべき場所(宛)なのだとすれば、それも合点がいく。

 

そして、主人公であるKはこう呟くのです。

 「それでも見込みはあると期待しているのです。

  そうでなければ、どうして生きていくことができるのでしょうか。」