xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

左翼もしくはリベラル勢力が何故、影響力を失ってしまったのでしょう? ~「理想や思想で腹は満たせない」という”現実”は無視?~

世界が赤く見えないか。

それは戦火で街が炎に包まれているからか、流された血が大地をおおっているからか。あるいは憤怒で自分の眼球が血走っているためなのか。

世界がどこまでもくすんだ灰色にしか映らない者は、引き攣った愛想笑いを浮かべながら隣人にへつらっていろ。

 

えっと。。。

 

こういった感じで、やたらと上から目線からの

マスターベーションっぽい文章

を書き散らされても、ヒトのココロはそうそう動くものではない・・・

そんな風に思うんです。

 

そんなことより

「無知なお前らに教えてやる!」

と大上段に構えたところで、虐げられた者たちのお腹は満たされるの?

できもしないこと大仰に書き散らすのは、右翼でも左翼でも同じですねぇ~

 

さてさて。。。

 

なるほど確かにいま、マルクスマルクスとして読むのが、つまりテキストをテキストとして読むのが困難になっている。

まずは『共産党宣言』を読むことを阻んでいる障壁を取り除き、もっと自由な読み方ができるテキストとして提示することからとりかかろう。

テキストをテキストとして読めないのは、『共産党宣言』を読む際に、この書が執筆されて以降の歴史を読み込んでしまうからだ。

もちろん読者も歴史に規定されているからには、それはどんな読書にも常につきまとう。

しかし、『共産党宣言』においては特に過剰である。例えば「共産党」という一語をとってみても、日本共産党、あるいはソ連や中国の共産党、そしてその国家体制までを読み込んで理解してしまうのだ。

マルクスの時代に存在しなかったものをマルクスのテキストに織り込んで読んでしまっている。

 

その程度のこと、読書人なら当然のこととして知っている。

ちなみにアザゼルも「共産党宣言」を古本屋さんで買って読んだけど・・・

純粋にツマンなかった。

 

政治思想そのものの書物であるにも関わらず、その後の歴史まで無視して読めって、どこまでご都合主義なんでしょう。

右翼でも、左翼でも、リベラルでも、保守でも、都合の悪いことには(作為にせよ、無作為にせよ)スッゴク無頓着だし、そのたびに出てくるのは溜息だけ・・・

 

で・・・共産党宣言の最後は、こう結んでいる。

共産主義者は、自分の見解や意図を隠すことを恥とする。

共産主義者は、かれらの目的が、これまでのいっさいの社会秩序を暴力的に転覆することによってしか達成され得ないことを公然と宣言する。

支配階級よ、共産主義革命の前に慄くがいい。

プロレタリアには、革命において鉄鎖のほかに失うものは何もない。

かれらには獲得すべき全世界がある。
全世界のプロレタリア、団結せよ!」

共産主義=暴力容認

この等式が成立するっていうことを宣言しちゃってドーするの。

 

それに・・・

旧ソ連あるいは中国に代表される共産主義国家のような、プロレタリアート独裁を叫ぶ思想が全土を覆った国々で大粛清や人民が抑圧されていた(されている)事実は、軽ぅ~く無視しちゃうわけ?

プロレタリアート独裁が結果的に凄まじい暴力あるいは虐殺を容認し、信じられないような多数の者たちを餓死へと追いやった事実を曖昧模糊にして何を言ってんだか(笑)

 

ただし、面白い部分が全くなかったのかというと、さにあらず。

共産党宣言』といえばまず階級闘争史観をおさえなければならない。

「今日に至るまで、あらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」との有名な一節にその歴史観が端的に表現されている。

自由民と奴隷、貴族と平民、領主と農奴など抑圧する者とされる者の絶え間ない闘いが歴史として展開されてきた。

その階級闘争の歴史は、ついにブルジョア階級とプロレタリア階級の対立に至る。

封建社会を打ち倒したブルジョアが支配階級となった現在の社会のありよう、ブルジョア階級が果たす役割が克明に描かれている」
ブルジョア階級は、世界市場の開拓を通して、あらゆる国々の生産と消費を国境を超えたものとした。反動派の悲嘆を尻目に、ブルジョア階級は、産業の足元から民族的土台を切り崩していった」
「そうした産業はもはや国内産の原料ではなく、きわめて遠く離れた地域に産する原料を加工し、そしてその製品は、自国内においてばかりでなく、同時に世界のいたるところで消費される。国内の生産物で満足していた昔の欲望に代わって、遠く離れた国や風土の生産物によってしか満たされない新しい欲望が現れる」
「かれらはすべての民族に、存続と引き換えに、ブルジョア階級の生産様式の採用を強制する。かれらはすべての民族に、いわゆる文明を自国に輸入することを、すなわち、ブルジョア階級になることを強制する。一言で言えば、ブルジョア階級は、かれら自身の姿に似せて世界を創造するのだ」

 

この部分は、今でも色褪せていない指摘。

いわゆるグローバル資本主義批判ですものね。

 

現在のグローバル資本主義批判の急先鋒、ロバート・ライシュあたりがこの文章を書いたとしても、何の違和感も抱いたりはしないでしょう。

だって、イイタイコトに大きな差異は無いのですから。

 

でもね。。。

 

マルクス弁証法的に歴史を描いているということの意味は、対立する階級が歴史を推進するということではない。ブルジョア社会の発展がそのままプロレタリア階級の勃興を準備する道程である、という裏腹な二面性の同在を指摘したことにある。

それはこういうことだ。

ブルジョア階級が漫然と担ってきた工業の進歩は、競争による労働者の孤立化に代えて、統合による労働者の革命的団結を作り出す、それゆえ、大工業の発展とともに、ブルジョア階級の足元から、かれらが生産し、また生産物を取得していたシステムの土台そのものが取り去られる。かれらは何にもまして、かれら自身の墓掘り人を生産する。かれらの没落とプロレタリア階級の勝利は、ともに不可避である」

では、その逢着点としての共産主義とはどのようなものか。

共産主義を特徴づけるものは、所有一般の廃止ではなく、ブルジョア的所有の廃止である」とマルクスは端的に定義する。

 

キター!マルクス史観(笑)

コレ・・・かなぁ~り、無理があると思うぞ。

 

この弁証法史観って、それ自体は意味があるし、有意義であるとは思うんです。

ただ、それを応用した結果がプロレタリアート階級の勝利とプロレタリアート独裁が必然であると導き出すっていうのが、強引すぎる。

 

挙句に。。。

 

多くの人の共同によってしか、つまり社会的にしか生産されないものを、支配階級が占有することがなくなるのである。

「やっぱりオレの財産を奪おうとしてるじゃないか」という者はいるだろう。

それがブルジョア階級だ。

プロレタリアは何も失わない。

なぜなら失うものを何も有していないからだ。

プロレタリアが失うものは鉄鎖だけである。

 

・・・これって、リアル戯言ってことにならない?

「もう食うものが無い・・・

 だから、生きるために闘争するんだぁぁぁあああああ!!」

って感じ?

 

まあ・・・日本の大多数の国民が貧困に喘ぐような事態に陥れば、大きく社会体制も変わっているだろうし、半ば必然的に政治体制も変わっているだろう。

でも、例えそうであっても、日本のような先進国の生活基盤の中には、世界の大多数を占める発展途上国の国民を収奪する装置が組み込まれているということは、忘れちゃいけないぞ。

 

そもそも。。。

 

虐げられている・・・そう思うのなら、何故、そこから抜け出そうと努力しないの?

「生きる」ことを選択したのなら、泥水をすすってでも生き残る決意と行動をしなきゃ、結局、何も変わらないじゃない。

 

いずれにしても・・・右でも左でも、どちらか一方に偏った考え方に固執しちゃうと、待っている先にあるものは崩壊あるいは滅亡。

先の大戦でイタイ目をみている国民は、そこまでバカじゃないって。

 

大多数の国民の目線は、経済や福祉に向いているのは周知の事実。

共産主義者がギャーギャー奇声を上げながら喚かなくとも、憲法9条改正案が国民投票で可決されるとホントに思っているとしたら、相当おバカさんだと思うぞ。

 

なんでそう言えるのか?

憲法9条の改正は、一方的に国民の負担が増加することになるから。

 

もし、それでも容認することがあるとしたら・・・

 

日中間でのリアルな軍事衝突により、事実上の開戦状態に至り、自衛官はもとより一般市民まで虐殺され、国土を喪失するという事態に陥ったときじゃないかしら。

その意味では、戦争したくてウズウズしちゃっている方もいらっしゃるかも・・・ね