xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

「同胞」とは何か、その疑問が胸を突き上げる ~「自己責任」で片づけてしまったら、「日本人」という同胞意識は崩れ去ってしまうのではないのか~

 最初に・・・

後藤健二様のご冥福をお祈りいたします。

貴殿の救援に関し、何の行動も起こさず、ただ安穏と暮らしていたことを深くお詫び申し上げます。

 

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私は、この問題に対して傍観者を決め込んでいた。

だから、何も行動を起こさなかった。

 

「卑怯だ!」というのなら、いくらでも非難しても構わない。

そのかわり、非難するのなら、本件に関し、貴方が具体的に何をしたのか、書くぐらいのことはして欲しいと思う。

 

さて。。。

 

傍観者を決め込んだ理由について、チョットばかり話しておきたいことがある。

本件には、後藤さんらの「自己責任」などという簡単な回答では決して済まない問題が含まれているからだ。

 

「同胞」を軽々に見捨てる「同胞」とは・・・何なのだ?

ここでいう「同胞」とは、いうまでもなく「日本」が近代「国家」として成立した以降に芽生えた「日本人」という「国民意識」そのもののことだ。

 

事前に危険だと言われているのに、それを敢えて無視して行動した者を救う。

そのために、多くの「日本人」が危険を冒してでも、あるいは、国民全体が税という形で金銭的負担を許容してでも、行動する。

 

もし、上記のような考え方を根底から否定してしまったら、一体、「同胞」とは何なのだろうか?

私には、どうしても、その回答が見出せなかった。

 

挙句には、「自決せよ!」などと「同胞」意識の欠片も無い気違い(※敢えて伏字になどしない)まで地上波テレビで臆面も無く発言する有様である。

これは極端な例だとしても、それを放映できるマスコミ自身、「同胞」意識など持ち合わせていないのだろう。

 

この「同胞」意識が希薄なのが「日本」という「国家」の特徴なのかもしれない。

日本人である意味を問うことを忌避するが如き風潮も、ある意味で日本らしさといえるのかもしれない。

 

しかし。。。

 

「同胞」を救援しない「同胞」など・・・有り得るのか?

「同胞」意識の希薄で軽々に見捨てる者たちから構成されている「国家」など、本当に「国家」と呼べるのか?

 

ここで話題を変えてみよう。

 

米国国防総省からもさまざまな支援を受けて制作されたハリウッド映画「ブラックホーク・ダウン

その映画の中で、米軍の攻撃ヘリコプター「ブラックホーク」が迎撃され、敵勢力の支配地域のただ中に墜落する。

 

その乗員を救出するため、米国から派兵された地上軍は多数の犠牲を払いながらも任務を遂行する。

如何にも米国人好みの英雄的軍人の姿が描き出されている。

 

これを鑑賞した井筒監督は激怒した。

あんな米国万歳みたいな、アホらしい行動などあるか!と。

 

でも・・・映画の中で描かれているような献身的な救援活動ではなかったかもしれないが、米軍は本当に多大な犠牲を払いながらも、撃墜されたブラックホークの乗員を救いに行ったのである。 

もちろん、同じ米国軍人であり、軍事目的を遂行する一貫として行われた行動であることは事実であり、今回のイスラム国による日本人人質事件と同列に扱うことは困難であることぐらい分かっている。

 

しかし論点は、そんなところにはない。

この映画を観て

「ありえねぇ~」

「バッカじゃないの?」

といった感想を直観的に抱いてしまう「同胞」意識の希薄さと、そして何より「同胞」意識への潜在的嫌悪感のようなものを危惧するのだ。

 

戦後教育は、果たして正しかったのか?

日本人であることの意味を、敢えて避けて通ってきただけはないのか?

 

「同胞」意識なんか無くても「日本」という「国家」は存在しているのだから、何の問題も無いなどと、漠然と考えているのだとしたら・・・恐ろしいことだと思う。

「日本」を、「日本人」を、最後まで守りとおす「盾」となり得るのは、同じ「日本人」であるという「同胞」意識そのものではないのか。

 

でも。。。

 

今の私には、これが本当に正しい考え方なのだという確信が無い。

以上が、非常に乱暴かつ未整理なままではあるが、私が本件に関して傍観者たらんと欲した理由である。