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xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

映画「インターステラー」を観る(補遺) ~何故、ヒトは神から「試されるのか」?~


映画「インターステラー」を観る ~ノーラン監督の作品は、何故にココまでボクを魅了し続けるのだろう~ - xlab’s diary あやしい時代別館

 

先ほど、こんなエントリーを書いてみたのですが・・・

この映画での最重要キーワードって、何だと思われます?

 

ワームホール

それともブラックホール

あるいは環境破壊?

 

ボクの答えは「試練」

母船の名前が答えでもあるのですが、ココから割り出される結果は、意外にも神学上の論点でもある「試された」ときに、どのように振る舞うのか?という究極の選択。

 

「神を試してはならない」と聖書では説いています。

その一方で、例えばヨブ記のように、神はヒトをおぞましいほどに試すのです。

 

この片務的な関係性(あるいは絶対的な上下関係性)は、何を意味するのでしょうか?

この点については、これまでも様々な解説がなされてきましたが、イマイチ、ボクには合点がいきません。

 

この映画でも、やはりヒトは「神」によって試されるのです。

ありとあらゆる困難な状況へと追い込まれながら・・・

 

劇中、天才と賞賛されていたマン博士は、死に直面して本来の役割を忘れ、自己保身を選択します。

しかし、その結果・・・「神」は彼を選択することは無かった。

 

選ばれし者となったのは、自己犠牲を進んで選択した”彼”の方だった・・・

この映画が、少なくともボクにとって、優れて宗教的・寓話的イメージに満ち溢れていると思わせている大きな要因がココにあります。

 

「死」は全てを失うこと

「死」は全てから解放されること

 

自己犠牲という、敢えて「死」を選択した者にのみ訪れる「救済」

これは何を意味するのでしょう・・・

 

「再生」を意味するラザロ計画。

「再生」は喜びをもたらすものなのか、それとも、辛い現実の続きでしかないのか・・・

 

さて。。。

 

福音書に出てくるラザロ・・・といえば、そう・・・

ドストエフスキーの「罪と罰

 

主人公のラスコーリニコフが自己正当化のために作り上げた空虚な理屈は、極貧の中でも家族のために生きる売春婦のソーニャの健気さの前に瓦解する。

英雄は、ニーチェが説いたような超人などではなく、究極の選択を迫られたときですら、人間足らんとする揺ぎない意志を持つ者をいうのでしょう。

 

この映画の深遠さは、まるで果ての見えない大河のように、ボクをまだ見ぬ「知性の海」へと誘うのです。

全然面白くないと感じる方もいらっしゃることでしょう、ですが・・・この映画を表層的に眺めるだけでは、何とも勿体無いことだと、ボクは思うのです。