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xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

柄谷行人「帝国の構造」(青土社)を読む ~アナーキズム風味の「帝国」賞賛の書~ 

最近、柄谷行人さんの著作をちょくちょく読んでおります。

右翼団体から脱会したら、早速、宗旨替えかって?

 

いいえ、違うんです。

主義主張が真っ向から対立する方の著作を読んでいると、あらためて自己の思考なりの外延が浮き彫りになるからなんですよね。

 

この本は、池袋の書店で見つけたもの。

ああ、新しい本が出たんだなぁ~と思って買ってみたってわけ。

 

実際に読んでみると、柄谷行人さんって絶対にアナーキストなんかじゃないって分かります。

むしろ、(帝国主義ではなく)帝国、特に中国を露骨に賞賛する態度には閉口。

(まあ・・・中国の大学での講演録なんだから、そうなるんだろうけど)

 

世界共和国樹立に向けてのくだりは・・・もうね、鳩山元総理に相通ずる悪寒をおぼえましたぞ。

何だか分かんないけれど、アナーキズムっぽくもあり、理想主義っぽくもあり、無意味な妥協の産物の書としか、ボクには受け取れませんでした。

 

さてさて。。。

 

この手の書物に共通するものって、人間の理性なり知性なりに無批判といって良いほどの信頼を置きたがること。

  人間の理性や知性には限界がある。

  そんなものより感情の方が圧倒的に力がある。

  そんなことは分かっているが、それでもなお、理性や知性を信じたいのだ!

って感じ。

 

(右翼系の文書って読むだけ無駄なものがほとんどだけど・・・)左翼系の文書も現実社会(あるいは現実の人間)と乖離した夢物語を平気な顔で書いちゃうから笑えます。

しかも、こういった理想主義者は、一旦、権力を握ると現実無視の強権政治を行おうとするから本当に始末におえない。

 

人間の理性なり知性に信頼を置きたいという気持ちは分からないではない。

しかし、それこそは安易な方法論というべきもので、人間を論理だけで語る空虚さだけがボクの胸に去来する。

 

「理性が眠れば、悪魔が目覚める」

その言葉の前で、ボクはボクなりに理想と現実の狭間、中庸に身を置きながら、進むべき道を模索しなければならない。

 

思想信条における自己責任。

本来問うべき自己責任とは、第一次的にはそういったものだと思うんです。

 

ちなみに。。。

 

「帝国」を巡る議論は、無論、柄谷行人さんが提唱したものでは決してございません。

文化的多元論と反グローバリズムの理論的両立(ナショナリズムに堕することなく、反グローバリズムへと止揚せしめんとすること)を図るべきして出てきたもの。

 

別にネグリあたりを持ち出すまでもなく、この手の議論て、結局は西欧の考え方を換骨奪胎することもなく直輸入しちゃったもんだから、何ていうか・・・消化不良のまんま放置されちゃっている気がします。

国家(あるいは国民)意識を超越せしめた者たちが国際的に「連帯」しながら新たな権力構造を創造・構成することができる・・・何となく・・・楽しくなってくるでしょう、夢物語を読んでいるみたいで。

 

ソ連の解体、中国共産党による文化大革命の否定を経て、共産主義者がその理論的破たんを必死になって抵抗(いわゆる「共産主義は間違っていない」っていう主張ね)した(というより、せざるを得なかった)。

そんなとき、グローバル資本主義体制に搾取されることへの反対を声高らかに唱えた「帝国」(ここでいう帝国って、ローマ帝国内でのゲルマン民族の活動を思い浮かべると分かり易い)の概念は、共産主義に相通ずるものが強かったから、この概念を積極的に評価(信奉)する共産主義者が少なくなかったんだって。

 

でもね、少し考えてみれば分かることなんだけれども、「帝国」の概念に同意するってことは、少なくとも一旦はグローバル資本主義体制下に組み込まれることを是としなければならない。

だから、(共産主義者が未だによく使う)「米国帝国主義」に対抗できる存在としての中国に注目するのも、理論的解釈として分からなくはない。

 

共産主義者、というよりマルキストたちが大挙としてカルチャル・スタディーズへと流れ、ポスト・コロニアリズムへと進化(あるいは退化?)しつつある・・・そんなところなのかもね。

国家国民思想を越えて、反グローバリズムの旗頭の下で国際的に連帯する・・・そんなことができると信じるのなら、世界共和国なる夢幻の彼方にしか存在できないものに期待するというお気楽な考えも・・・出てくるんだろうなぁ~