読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

xlab’s diary あやしい時代

感じたことを、感じたままに

「旧約聖書 ヨブ記」の持つ、相反する二面性 ~神の正義あるいは権威を強弁すればするほど、それを否定することになるという、大いなる矛盾~

理由は上手く説明できないんですが、アザゼルは旧約聖書が好き。

その中でも異色と言える「ヨブ記」に強い興味を抱き続けてきました。

 

ヨブ記」って何のこと?ってヒトは、こちらで概要をお読みくだされ。

ヨブ記 - Wikipedia

 

参照先のウィキでも書いているけれど、その物語(と言い切れるかどうかはさておき)のテーマは『義人の苦難』

つまり、宗教全般に共通するであろう教義上の難問「何故、良き人が酷い目に会わねばならないのか?」という理由を説明しようとしたもの。

 

旧約聖書が成立する以前から、「神がいるのなら、何故、信心深く正しい生活を心掛け実践している者が貧困や病気などに苦しまねばならないのか?」(=神は正しき行いを続ける者へ救いの手を伸ばそうとはされないのか?)といった疑問を持つ者が多かったのでしょう。

宗教上の指導者たちにとって、そのような信者の疑問を無視できなったと思われ、それが「ヨブ記」の成立へと結実したと素直に解釈すべきだろうと思います。

 

この物語の真意を知りたくて、アーでもないコーでもないと頭を捻っては、自らを無明の闇の中へと陥れてきたんです。

要するに、皆目分からなかった・・・ってわけ。

 

特に・・・神とサタンが戯れに行った賭けに神が勝利した後からが、まさに“超”展開!

何なのコレ???って感じなんだもの。

 

トリックスターとしての役割を与えられたサタンに至っては、賭けが神の勝利に終わると、何故か、その後は全然出てこない。

これなどは神の持つ二面性、つまり、神は同時に悪魔でもあり、あたかも多重人格障害を患っている病人なのかもしれないなぁ・・・と感じています。

 

神と悪魔は実は同一であり、救い難い多重人格障害を患っている。

そんな神に救いを求めるなんて、ある意味、とんでもない喜劇でしょう。

 

さてさて。。。

 

主人公ヨブの友である、エリファズ、ビルダド、ツォファルの3名との議論は唐突すぎる。

経済的にも肉体的に死亡宣告を受けた者に対する、友からの「罪を認めよ!」という容赦のない苛烈なまでの追求。

 

確かに物理的世界観によれば、この世界は因果律に支配されている。

というより、物理世界は因果律によって成立している。

 

だからといって、ある特定の人間にもたらされる幸福あるいは不幸といった類の問題において、当該人間の行いのみによる因果応報論が成立すると考えるのは、余りに稚拙な考えでしょう。

人間が認識できる世界が因果律によって支配されているとしても、世界を構成する非常に僅かな一要素に過ぎない一個人の幸福や不幸が当該一個人の行いの結果に帰するわけがありませんもの。

 

宇宙規模で考えた場合、この感得できる世界は、人間如きが到底認識できるはずもないほどの要素あるいは要因の相互関係あるいは相互作用が働き、その結果として“現時点”における世界が出来上がっている。

その世界の極々小さな構成要素に過ぎない一個人の幸福や不幸という「結果」が、当該個人の行いという「原因」によってのみもたらされることなど、因果律を大前提に置いたとしても、絶対にあり得ません。

 

だから。。。

 

ヨブ記」において、

(1)エリファズの行為について

聖書の解釈上「聖職者」とみなされているエリファズが、ことほど左様にヨブに告白と懺悔を強要したのは当然である。

一個人レベルでの因果応報論を放棄せしめた場合、ユダヤ教に限らず、この世界中に存在するほとんどの宗教が成立する余地を失うからである。

(2)神がエリファズら3名の友人に対する怒りについて

神が宇宙規模での絶対者、すなわち、この世界の造物主であり維持者であるのなら、聖職者らに怒るのは当然である。

人間如きが認識どころか想像することすら不可能な相互関係あるいは相互作用の結果としてもたらされる結果(一個人の範囲に限定すれば、当該個人の幸福や不幸)について、一個人の行為によってのみ結果がもたらされると強弁することは、世界を維持せしめている神に対する冒涜以外、何者でもないからである。

 

ココまでなら、何となく神が言わんとすることが分かりそうな気もしますよね。

神は、ある意味で確かに答えているのです、ヨブの悲痛なまでの問いに。

 

神がヨブのことを(世界の有様に対する)知識は乏しいが正しいことを言ったと評価したことは、この考え方の正しさを補強するものといえましょう。

エリファズの主張する、特定の個人に(宗教上の)罪があるか否かは神のみぞ知るものだとして「お前が不幸なのは、お前が罪を犯したからだ!」と何の疑問を持たないままに強弁したことを、神が叱咤したことも同様に補強材料と成り得ましょう。

 

ところが。。。

 

物事には相反する二面性が内包されているように、この物語にも根本的に相反する問題を内包しているのです。

神の正義を説いたはずの「ヨブ記」は、その実、神が存在しないことを示す強力な証拠とも成り得るという点において。

 

神がヨブに応えた言葉は、「神の正義」あるいは「神の権威」を示すものと解釈することもできますが、だとしてもヨブの問いそのものへの回答とは全くなっていません。

これが入試試験なら、神は不合格となり、遭えなく浪人を余儀なくされる(神も予備校に通う?)ことでしょう。

 

まあ・・・乱暴にいえば、神の計画は深遠すぎて、人間には理解し得ないものだから語らないということも考えられなくはない。

まさに、『論理哲学論考』の最初と終わり(聖書に例えれば、アルファとオメガ=神)のとおり、「世界は起こっていることの総体である」と同時に「語り得ぬことは沈黙せねばならない」って感じ。

 

さて、ここで神は大いなる墓穴を自ら掘ってしまっています。

神は一個人の悲痛な問いにすら応えることができない、言い換えれば、神は一個人に対しては何ら救いを与えるような存在ではないと、自ら告白してしまっている。

 

つまり、神が存在しようがしまいが、一個人レベルにまで極小化してみると、何の影響もないということ。

何の影響もないということは、多元宇宙論での議論と同じで、論理的には存在するかもしれない(=実証することは永遠に不可能)が、存在しないと仮定することも当然に可能。

 

ヨブ記の編纂者も、流石にこのままではマズイと考えたのでしょう。

最後に、ヨブはスッゴク幸福になったと簡単に付け足しています。

 

この取って付けたような神の恩恵を書いてしまったことで、因果応報論を否定ながら、因果応報論に帰結させるという、自爆テロを敢行しちゃった。

しかも、この部分、後世に書き加えられたと一般には解釈されています。

 

オイオイ、聖書は一字一句に至るまで、神の言葉じゃなかったの?(苦笑)

因果応報論を否定しちゃったら、そもそも神を信じる意味が無くなるのに、因果応報論を否定しないと義人の苦難は説明できないという、根本的な矛盾。

 

これが宗教の限界ってやつなんでしょう。

信じようとしまいと、神からは何の救いの手も差し伸べてはもらえないのに。

 

むしろ、どの神を信じるか否かで対立し、中東にみられるように平然と人命を奪い去っているのは、人間の業を言うべきなのかもしれません。

神の問題は、決して紙の上での議論で済まない、という点で余りにもリアル。

 

じゃあ、アザゼルは神を捨てることができるのか?

これは難しい・・・

 

神を捨てることは容易い。

しかし、その価値観に変わり得るもの、生きていく過程で信じ得るものを、他に獲得できるのか、その自信が無いのです。